西村京太郎 寝台急行「天の川」殺人事件 目 次  第一章 朝 の 死  第二章 惜別の列車  第三章 確  執  第四章 思い出の列車  第五章 タイムリミット  第六章 罠をかける  第一章 朝 の 死     1  直子は毎朝、家の近くをジョギングする。  幸い、近くに広い公園があったり武蔵野の面影を残す雑木林があったりで、ジョギングを楽しめる風景である。  夫の十津川は刑事という仕事柄、帰宅時間が不規則で、一緒に朝のジョギングをするということはほとんどなかった。  自然、直子は一人でジョギングということになるのだが、よくしたもので、毎朝、走っていると仲間が出来てきた。  テレビによく脇役で出ている中堅女優の堀切ゆき子も、仲間の一人だった。  百七十センチ近い長身で、高校時代はバレーボールをやっていたというだけに、三十二歳の現在も、十キロや二十キロは楽に走れると自慢していた。  一度、結婚したというが、今は気楽な独身生活を楽しんでいるらしい。  もう一人、ルポライターの矢代利明がいる。二十八歳の背のひょろりと高い男で、直子は最初のうち、矢代が何をする男かわからなかった。  彼の方でもいわなかったし、直子の方から聞いたこともなかったのだが、ある日、直子の買った雑誌に、矢代の書いた教育問題についてのルポと顔写真がのっていたので、彼の職業がわかったのである。  直子たち三人は、別に待ち合せの場所を決めておいて走り出すというのではなく、走るコースが決っているので、いつの間にか一緒に走っているという形だった。  三人以外にも、時々、一緒になる顔もあった。時には、見覚えのある政治家が秘書と一緒にジョギングしているのにぶつかって、びっくりしたこともある。  五月二十八日も、直子はいつものように朝の五時に家を出た。  夫の十津川は、昨夜、婦宅がおそかったので、直子が目覚めた時はまだ眠っていた。それを起こさないように気を使い、朝食の用意をして飛び出した。  五時でも、もう十分に明るいし、新緑のまばゆい季節になっている。毎日ジョギングしていて、一番強く感じるのは季節の移り変りである。  直子がいつものコースを走り出してすぐ、堀切ゆき子が一緒になった。  ゆき子は女優だけに、トレーニングウェアでも配色にこっていて、直子はいつも感心してしまう。 「昨日は、どうしてたの?」  並んでゆっくり走りながら、直子がきいた。 「昨日は新潟にロケに行ってたの。でも、向うで朝のジョギングはやったわ。毎日走らないと何となく落ち着かなくて」  とゆき子が笑った。  いつものように公園の中を通り抜け、雑木林の横を走る。  小学校が見えてくる。まだ子供たちの姿は見えない。  いつもなら、そろそろ矢代が現われて一緒に走る頃だと思ったが、今朝は直子たちが二周目に入っても現われなかった。  毎朝見なれている顔が見えないと、やはり気になるものだった。  ゆき子も同様だとみえて、 「矢代さん、どうしたのかしら?」  と小声でいった。  三周目に入った時、シェパードを連れた中年の男が現われた。  犬を散歩させているのだろう。  二人が見ていると、犬は鎖を引っ張るようにして雑木林の中に入って行った。  直子とゆき子が彼らを追い越した時、突然、背後で犬が吠え、男が何か叫んだ。  二人は立ち止って振り返った。  男が雑木林から飛び出し、蒼い顔で直子たちに向って叫んでいた。 「人が死んでるぞ!」     2  直子とゆき子は、雑木林の中に入って行った。  シェパードはまだ吠えている。  道路から雑木林に入ってすぐのところに、トレーニングウェア姿の男が俯《うつぶ》せに横たわっているのが見えた。 「矢代さんじゃない?」  ゆき子が蒼ざめた顔で直子にきいた。 「そうだわ。矢代さんだわ」  直子は気持を落ち着かせ、矢代の横にかがみ込んだ。  手首に触れてみた。  脈を打っていなかった。 「死んでるの?」  ゆき子がのぞき込むように見ている。 「死んでるわ」  と直子はいった。  男が後に来た。 「私が一一〇番してくる」  といって駈け出して行った。  直子は夫が捜査一課の刑事をしているのだが、それでも死体を見るのに馴《な》れているわけではなかったから、蒼い顔はなかなか元に戻らない。  まして眼の前に横たわっているのは、毎日のように顔を合せていた人間である。  ゆき子の方も呆然として佇《たたず》んでいる。  そのうちに、救急車とパトカーが同時に駈けつけた。  救急隊員が、改めて矢代がすでに死亡していることを確認した。  検死官はパトカーから降りて、死体を入念に調べていたが、 「外傷はないね」  といっているのが直子の耳にも聞こえた。  急に肩を叩かれて振り向くと、いつの間にか夫の十津川が立っていた。 「パトカーのサイレンの音がしたので、気になってね」  と十津川が小声でいった。 「いつか話した矢代さんが死んだのよ」 「朝のジョギングのお仲間だね」 「ええ。今、検死の人が外傷がないといっていたから、心臓発作かも知れないわ」 「ジョギング中の死亡というやつか。少しばかり無理をしたのかも知れないね。私はジョギングをやらなくて良かったよ」  十津川は冗談めかしていった。本当をいえば、最近、中年太りを気にして、何か運動をしなければいけないなとは思っているのである。 「矢代さんは心臓は丈夫だといっていたのだけど」  直子は首をかしげた。  僕はやせて弱く見えるけど、内臓だけは丈夫なんですよと、矢代は一緒にジョギングしながらいったことがあった。  負け惜しみでいったのかも知れないが、あのやせた身体でS大のエベレスト登山隊に同行して、その登頂記を書いたというから、身体は丈夫なのだろうとは思っていたのである。  それに、オーバーペースで走る人でもなかった。  矢代の遺体は一応、救急車に収容され、死因を調べるために大学病院へ運ばれて行った。  パトカーも姿を消してから、十津川は矢代の倒れていた場所へ足を運んでみた。  道路から雑木林へ五、六メートル入った場所である。 「なぜこんな所に倒れていたのかな? ジョギングのコースから外れているんじゃないの?」  十津川は妻の直子にきいた。が直子は事もなげに、 「走っているうちに急に気分が悪くなったんで、この辺の樹に寄りかかって休んでいたんだと思うわ。それで治ると思っていたら、心臓発作を起こして死んでしまったんじゃないかと思うの」 「なるほど。気分が悪くなって、ここで樹に寄りかかって休んでいたか」  十津川は自分でも樹の根本に腰を下し、寄りかかってみた。  樹の匂いや草の香りが、むっと立ち昇っている感じがした。土の匂いもである。日頃、無縁なので、強烈に感じるのかも知れない。 「だが、おかしいな」  十津川はそのままの姿勢で、立っている直子を見上げた。 「何が変なの?」 「君のいう通り、この恰好で休んでいて心臓発作を起こして死んだとすると、横にどさっと倒れたろうと思うんだが、実際には俯せに倒れていたんだろう? どうもそこが納得できないんだが」 「つまらないことを不思議がるのね。矢代さんは樹に寄りかかっていた、ところが気分がよくなったので、立ち上って道路に戻ろうとした時、心臓発作に襲われたんだわ。それでここに俯せに倒れていたのよ。別に不思議はないわ」 「なるほどねえ。そういうふうにも考えられるんだな」  十津川は感心したようにいい、立ち上ると雑木林を出た。  煙草に火をつける。  直子は十津川と肩を並べて家に戻りながら、 「きっと矢代さんは無理をしたんだと思うわ」  といった。 「それはジョギングのことかね?」 「矢代さんの仕事って、ルポライターで不規則だっていっていたのよ。だから昨日、原稿を徹夜で書いたりして、今朝、ジョギングに出たんじゃないかと思うの。無茶をしそうなところのあった人だから」 「それで心臓発作ねえ」 「まだ何か不審な点があるの?」 「内臓が丈夫な人なのにといって、首をかしげていたのは君だよ」 「ええ。いくら丈夫でも、徹夜のあとで走ったりすれば危いわね」 「君も注意してくれよ」  と十津川は直子にいった。     3  この日、警視庁捜査一課に顔を出した十津川は、すぐ本多一課長に呼ばれた。 「君の家は芦花《ろか》公園の近くだったな?」  と本多がきいた。 「そうですが──」 「その近くで殺人事件が起きたんだ。君ならあの周辺の地理にくわしいだろう。担当してくれんかな」 「ちょっと待って下さい」  十津川はあわてていった。 「他に事件は起きていない筈だが」 「そうじゃありません。芦花公園の近くで殺されたのは、矢代というルポライターじゃありませんか?」  十津川がきき返すと、本多は「ほう」という顔になって、 「知っているんなら、なおさら君に担当して貰うよ」 「やはりあれは殺されたんですか? ジョギング中に心臓発作でも起こしたように見えたんですが」 「最初はそう思われたんだが、念のために解剖してみたら、胃の中から毒物が検出されたんだよ。どうやらパラチオンと呼ばれる農薬らしいといっている。オレンジジュースもあったというから、パラチオンをジュースに入れて飲まされたんだろうね。自分で飲んだ可能性もなくはないんだが」 「それはありませんね」  十津川はきっぱりといった。 「なぜだい?」 「実は私は現場を見ているんです。よく見たから確かですが、ジュースの缶もコップも落ちていませんでした。矢代の住んでいるマンションは、あの現場から少くとも二百メートルは離れています。パラチオンを飲んでから現場まで歩いて来て倒れたとは思えませんから、ジュースの缶かびん、或いはコップは、犯人が持ち去ったんだと思います。つまり、これは間違いなく殺人事件です」 「いよいよ君にやって貰わなければならなくなったね」  本多は満足そうにいった。  世田谷署に捜査本部が置かれた。  十津川は部下の亀井刑事と、まず被害者の住んでいたマンションを調べてみることにした。  八階建の真新しいマンションである。  その最上階の矢代の部屋からの眺めは、なかなか素晴しかった。  奥多摩の山脈が見え、その向うに意外に近く富士がそびえている。 「確かにジョギングにはいい場所ですね」  亀井は窓の外に眼をやりながら、十津川にいった。 「だからうちの奥さんも、毎朝ジョギングしているよ」 「被害者はそのジョギング中に、殺されたというわけですか」 「状況はそういうことだと思う。被害者の矢代利明はいつものように、朝、ジョギングに出た。その最中に犯人に出会ったんだ。犯人は、用意しておいた農薬入りのオレンジジュースを矢代に飲ませたんだ。走ってのどの渇いていた矢代は、雑木林の中に入っていっきに飲み干した。そして死んだ。あの雑木林だよ」  十津川はベランダに出て、問題の雑木林を指さした。 「すると犯人は、顔見知りということになりますね。全然知らない人間から、ジョギング中にジュースを貰って飲まないでしょうから」 「そうだろうね。犯人は矢代が毎朝この近くをジョギングするのを知っていて、待ち伏せしたんだろう。問題は、どんな関係なのか、それと動機だね」  二人はベランダから室内に戻り、被害者の交友関係を調べることにした。  大きな机の引出しには、「矢代」という名前の入った原稿用紙が五、六百枚入っていた。  本棚には、矢代の書いた何冊かの本が並べてあった。  ベストセラーになったエベレスト登頂記もあったし、がらりと傾向の違う『芸者K子の記録』といった本もあった。 「何にでも手を出していたようですね」  亀井が感心したようにいった。  十津川は一冊抜き出して、あとがきのところを読んでみた。 〈私がノンフィクション物を書く時、留意していることは、まず第一に、嘘は絶対に書くまいということである。いいかえれば、ありのままを書くということでもある。  多少、虚構をまじえれば、面白いものになると感じることがある。そういう書き方でベストセラーになった作品があることも知っているが、私は絶対にそんな妥協はしたくない。  従って、この作品に書かれていることは全て事実である〉 「こちらにポータブルのワープロがありますよ」  と亀井がいった。 「それでわかったよ」 「何がですか?」 「机の引出しに原稿用紙が一杯入っていたが、使っている様子が見えなかったんだ。だから、最近はワープロで原稿を書いていたんだろう」 「私はどうもこういう機械は苦手ですね」  と亀井が笑った。  十津川は、被害者宛に来ていた最近の手紙を調べてみた。  ルポライターという仕事のせいか、出版社からのものが多かった。  新しい仕事の依頼もあれば、増刷の知らせもある。原稿料や印税を銀行へ振り込んだという通知もあった。  その中に、K出版社第二文芸部からの次のような手紙も見つかった。  速達のハガキである。 〈追憶の寝台急行「天の川」のルポルタージュ、きっと面白いものになると、大いに期待しております。本にするのには今月末がぎりぎりですので、よろしくお願いします。  矢代様                     岩間〉 「今月末というと、あと三日あるな」  十津川がいうと、亀井が、 「それがどうかしましたか?」 「探しているんだが、このハガキにある原稿が見つからないんだよ」 「追憶の寝台急行という原稿ですか?」 「そうだ」 「死ぬ前に出版社に送ったんじゃありませんか?」 「聞いてみよう」  十津川は部屋にあった電話で、K出版社に連絡をとった。  第二文芸部の岩間という編集者を呼んで貰い、矢代利明が殺されたことを告げた。  岩間はまだ知らなかったらしく、 「本当ですか!」  と大きな声を出した。 「朝のジョギング中に殺されたんです。それで、いろいろとお聞きしたいのですよ。追憶の寝台急行『天の川』という原稿は、もうそちらへ渡してあるんですか?」 「いや、まだ貰っていません。楽しみにしていたんですがねえ。もしそちらにあるんでしたら、矢代さんの遺作としてぜひ、本にしたいと思いますね」 「最近はワープロで打っていたんですか? 矢代さんは」 「そうです。今年になってからずっとワープロでした。その方が手が痛くならないからいいとおっしゃっていましてね。ワープロの原稿がそこにあるんですか?」 「いや、見つかりません。全く書いてなかったということは考えられませんか?」 「それはありませんね。十日前にそちらに伺った時、出だしの五枚を読ませて貰いましたからね」 「それ、間違いありませんか?」 「ええ。なかなか出だしが快調なんで、楽しみにしていたわけですよ」 「どのくらいの長さのものですか?」 「四百字詰の原稿用紙で、五十枚前後でお願いしてありました」 「それで本になるんですか?」 「いや、これだけじゃ本にはなりませんよ。実は、日本の失われていくものという題で、何人もの先生に書いて貰っているんです。作る人がいなくなって亡びていく民芸品とか、橋が出来たために消えていく連絡船とかです。上野─秋田間を走る『天の川』も、三月十四日に新幹線が上野駅まで来ることになって消えてしまいました。それで矢代さんには、去年の暮に『天の川』に乗って貰っておいて、今、それを原稿にして貰っているところだったんです」 「矢代さんは出来あがった原稿を、郵便でそちらに送っていたんですか?」 「いや、いつも出来あがると電話がありましてね、私が取りに行くことになっていました」 (そうだとすると、問題の原稿はこの部屋になければならないんだが──)  十津川は電話を切ると、もう一度室内を見廻した。     4  2LDKの部屋の、隅から隅まで探してみた。  机の引出し、押入れ、本棚、テレビの上、洋ダンスから下駄箱まで、十津川たちは調べてみた。  だが原稿は見つからなかった。 「おかしいね」  十津川が首をかしげていると、亀井は、 「警部は、矢代利明が殺された原因はその原稿だとお考えですか?」 「不満かね? カメさんは?」 「そうじゃありませんが、他の原因ということも十分に考えられるんじゃありませんか? 女性関係のもつれかも知れませんし、金銭がからんでいるのかも知れません」 「わかってるよ、カメさん。もちろんあらゆる可能性を調べてみるつもりだ」  と十津川は亀井にいった。  手紙と写真などから、一人の女性が浮び上ってきた。  四谷三丁目近くのマンションに住む、加藤由紀という女である。  彼女から被害者宛に何通かのラブレターが来ていたし、アルバムにも、彼女と思われる写真が何枚か貼ってあった。  二十五、六歳で背が高く、才走った感じのする女に見えた。  手紙の様子では、彼女はイラストレーターで、小説の挿絵なども描いているらしかった。 「この女性に会いに行ってみようじゃないか」  と十津川はいって、アルバムから彼女の写真を一枚抜き取った。  十津川は若い刑事二人を呼びつけ、ワープロで打った原稿を更に探すようにいいつけておいてから、亀井と新宿に向った。  四谷三丁目のマンションはすぐ分ったが、加藤由紀は留守だった。  電話番号を調べ、試しにダイヤルを廻してみると、留守番電話がK出版社へ出かけているといった。  K出版社といえば、殺された矢代が寝台急行「天の川」の原稿を頼まれていたところである。  十津川はそんなことを考えながら、もう一度、K出版社の岩間に電話してみた。 「加藤さんなら来てましたよ」  と岩間がいった。 「それで、今、どこですか?」 「矢代さんが死んだことを話したら、すぐにでも遺体を見たいといって、あわてて帰りましたよ」 「二人は恋人同士だったんですか?」 「そうですね。僕なんかも知っていましたから」 「結婚することになっていたんですかね?」 「さあ。それは本人に聞いてみて下さい」  岩間は慎重ないい方をした。  矢代の遺体は病院から世田谷署へ返された筈である。当然、加藤由紀も世田谷署へ来るだろう。  十津川も亀井も世田谷署に戻ることにした。  二人が戻ると由紀はすでに車で来ていた。  赤い国産のスポーツカーが横に停っているのを見ながら、十津川たちが入って行くと、彼女は蒼白い顔で矢代の遺体を見つめていた。 「加藤由紀さんですね?」  十津川が声をかけると、由紀はゆっくりと振り返った。  顔色はさすがに蒼ざめてはいたが、涙はなかったし、キッとした眼になっていた。 (どうも苦手なタイプだな)  と思いながら十津川は、 「いろいろとお聞きしたいことがあるんですが、よろしいですか?」 「ええ、構いませんわ」  由紀ははっきりした口調でいった。  十津川は彼女を近くの喫茶店へ連れて行った。こういう場所の方が、彼女も話しやすいと思ったからである。  昼前なので、店はがらんとしていた。  十津川は奥のテーブルに向い合って腰を下し、彼女のためにコーヒーを注文してから、 「矢代さんが、三月十四日に廃止された寝台急行『天の川』の同乗記をK出版に頼まれて書いていたのは、知っていましたか?」 「ええ。廃止となったあとで、思い出の列車として書いて欲しいといわれて、去年の暮に乗ったんです。丁度、私も時間があったので、一緒に乗りましたけど」 「ほう。あなたも乗られたんですか」  と十津川は由紀の顔を見直してから、 「その原稿が見つからないんですよ。矢代さんのマンションには、われわれが探した限りではありませんでした」 「彼の殺されたことと関係がありますの?」  由紀は運ばれて来たコーヒーには手をつけず、大きな眼で十津川を見た。 「それはまだわかりませんが、不審なことは全部調べたいのですよ。K出版社も、原稿は受け取っていないといっているんです」 「ワープロで彼がその原稿を打っているのを、見たことがありますわ。写真を見ながら」 「写真?」 「その列車の写真ですわ。私はスケッチしかしませんでしたけど、彼は三本ぐらい写した筈なんです。三十六枚|撮《ど》りのフィルムで」 「おかしいな。列車の写真も、矢代さんの部屋にありませんでしたよ」 「変だわ。私も彼が車内や駅で『天の川』を写したのを知っていますし、この間、原稿を彼がワープロで打っている時、机の上にその写真が並べてあったんですわ」 「去年のいつ『天の川』に乗ったんですか?」 「十二月の十四日だったと覚えていますけど」 「その時、車内で何か事件がありませんでしたか?」 「いいえ。何もなかったと思いますけど」     5 「矢代さんに敵はいましたか?」  十津川は質問を重ねた。 「ライバルはいたと思いますけど、その人たちは彼を殺すとは思えませんわ」 「普通ならそうでしょうが、矢代さんのために仕事を失った人がいたとすると、その人は恨んでいたんじゃありませんかね?」 「そんなことは考えられませんわ。彼のようなルポライターの世界というのは、くわしくは知りませんけど、仕事のことでもめても殺したりはしない筈だと思いますわ。他に仕事を見つければいいんですものね」 「そうかも知れませんが、人間は自分では知らずに他人を傷つけていることがあるものですよ」  と十津川はいってから、自分のコーヒーを口に運んだ。  由紀は黙っている。そんなことはないと思っているのか、それとも何か思い当ることがあるのだろうか。 「彼の遺体は、いつ引き取らせて貰えますの?」  由紀がきいた。 「矢代さんのご両親は、まだ健在なんですか?」 「お母さんが大阪で、妹さん夫婦と一緒に暮らしていらっしゃいますの」 「それでは、そちらにも連絡しなければなりません。矢代さんの遺体は、多分、お母さんに引き渡すことになると思いますよ」 「それでも構いませんわ」 「今日はこれ以上質問をしませんが、次には、去年の十二月に矢代さんと一緒に『天の川』に乗られた時のことを、お聞きしたいですね」 「警部さんはそのことが、彼が殺されたことと関係があるとお考えなんですか?」 「断定はしませんが、どうしても原稿や写真がなくなっていることが気になるんですよ。どうにも奇妙ですからね」 「でも、あの時からもう半年近くたっていますわ。もし私と彼が『天の川』に乗ったことが殺される動機なら、なぜ今まで彼は無事だったんでしょうか?」  由紀は当然の疑問を口にした。 「今まで矢代さんが変な目にあったことはなかったんですか? 車にはねられそうになったとか、駅のホームから突き落とされかけたとかいうことですが」 「彼からそんな話は全く聞いていませんわ。彼は神経の細かい人でしたから、もしそんなことがあれば必ず私に話してくれていた筈ですわ。それに──」 「それに、何ですか?」 「十二月十四日には、私も一緒に『天の川』に乗ったんです。もし彼が乗ったことで狙われたのなら、私も狙われなければなりませんわ。違いますか」  由紀はまっすぐに十津川を見つめた。 (この女は、恋人が死んだ悲しみはあっても、それで理性が働かなくなる人ではないらしい)  と十津川は思った。 「確かにそうかも知れませんね」  十津川は迷わずに由紀に向って微笑して見せた。     6  由紀には肯《うなず》いて見せたものの、十津川はやはり、寝台急行「天の川」の原稿のことが気になった。  K出版社の岩間の話でも由紀の話でも、矢代が原稿をワープロで打っていたことは、どうやら間違いない。  それに矢代は、締切りはきちんと守る方だったともいう。  とすれば、矢代が殺された日までに原稿は出来あがっているか、そうでなくても、七、八十パーセントは書いていなければならない筈である。  また、写真のことがあった。  同行した由紀は、矢代が「天の川」に乗った時、三十六枚撮りのカラー・フィルムで三本は撮《と》った筈だといった。  そのフィルムも、多分、引き伸しただろう写真も見つからないのだ。  ジョギング中の矢代を毒殺した犯人は、彼のマンションヘ行き、「天の川」の原稿と矢代の撮った写真を持ち去ったのではないだろうか。  殺された矢代は、トレーニングウェアを着ていた。  その上衣のポケットには、銀製のキーホルダーについたマンションのキーが入っていた。  しかしだからといって、犯人がマンションに入らなかったとは断定できない。  矢代の住んでいたマンションは、購入した時、部屋のキーを三つ、住人に渡すことになっていたというからである。  十津川が由紀に電話して聞いてみると、彼女も一つ、そのキーを矢代から貰っていたという。  とすると、三つのうち、あと一つが、どこにいったか不明ということになる。それを犯人が盗んで、矢代のマンションに忍び込み、「天の川」の原稿と写真をとったことは、十分に考えられるのではないだろうか。  翌日の昼前に、矢代の母親と妹夫婦が、大阪から駈けつけた。  母親も妹も、矢代が殺される理由は全く想像がつかないといった。身びいきもあるだろうが、昨日からK出版社の岩間や由紀に会って話を聞いている十津川は、実際の矢代も、他人《ひと》に恨まれることの少い人間だったと思うようになった。  十津川が母親と妹夫婦に聞くべきことを聞き、質問にも答えて部屋に戻ると、亀井が、 「見つかりましたよ!」  と大声でいった。 「何がだい? カメさん」 「原稿ですよ。殺された矢代がワープロで打った寝台急行『天の川』の原稿です。それに、その列車を写したフィルムもです」 「どこにあったんだ?」  自然に十津川の声も大きくなった。 「『BMW』という喫茶店です」 「『BMW』という店? 聞いたような名前だな」 「殺人現場から二、三百メートルのところにある店だそうです」 「それなら前を通ったことがあるよ。駅の近くだ。なぜそこに原稿があったんだ?」 「なんでも、被害者の矢代が時々、その喫茶店へ行って、コーヒーを飲みながら原稿やゲラ刷りの直しをやっていたらしいんです。それで今日、テーブルの下に茶封筒に入った原稿が置いてあるのが見つかったんだそうです。そこの主人《マスター》が今、持って来てくれるといっています」  亀井がいった。  五、六分して、三十五、六の男がバイクに乗って、大きな茶封筒を持って来てくれた。  喫茶店「BMW」のマスターで、山川という名前だといった。  ワープロで打った原稿と、現像焼付された写真が百枚余り、それにネガ、訂正するのに使ったのか、赤のボールペンが一本入っていた。 「矢代さんが最後にあなたの店に行ったのは、いつですか?」  と十津川は山川にきいた。 「確か五月二十七日だったと思います」 「二十七日というと、一昨日ですね。殺される前日か。何時頃、来たんですか?」 「矢代さんはたいてい夕方です。二十七日も六時頃、見えたんだと思いますね」 「それで、原稿を直していましたか?」 「ええ。読んでいらっしゃるのは見ています」 「それで、帰ったのは何時頃ですか?」 「よく覚えていないんですが、八時前後じゃないかと思いますね」 「矢代さんは、テーブルの下に原稿を忘れていってしまったことになりますね?」 「そうですね。こちらもすぐ気がついてお届けすれば良かったんですが」 「昨日一日、見つからなかったんですね」 「それが、八の日はうちの店は休みになっているものですから」  と山川は申しわけなさそうにいった。 「なるほど」 「それで今日、見つけましたが、肝心の矢代さんは亡くなってしまっているし、どうしたものかと警察に電話したら、ここへ持って来るようにいわれたんです」 「ありがとう。助かりましたよ」  と十津川は礼をいった。  だが山川が帰ったあと、十津川は何か拍子抜けの表情になっていた。 「どうされました?」  亀井がのぞき込むようにしてきいた。 「てっきりこの原稿は、矢代を殺した犯人が盗んで行ったと思っていたんだよ。矢代の撮った写真も一緒にね。それなら、矢代が去年の十二月十四日に寝台急行『天の川』に乗ったことが、殺しの動機ではないかと考えたんだがねえ。何のことはない、行きつけの喫茶店に忘れていたんだ」 「私も喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読んでいて、その本を忘れてしまうことがよくありますよ」  亀井は微笑した。 「今、ざっと見たんだが、原稿もきちんと五十二枚、最後まであるようだし、ネガも三十六枚撮りが三本、ちゃんと現像されて入っている。今度の殺しとは関係ないようだな」 「国鉄本社に問い合せてみたんですが、十二月十四日に上野を出た寝台急行『天の川』は、翌十五日の定刻に終着の秋田に着いています。車内で事件も起きていないということです」 「だろうね。今度の事件には関係なくなったみたいだが、とにかくこの原稿を読んでみるよ」 「何という題ですか?」 「なかなかロマンチックな題だよ。『惜別の列車、寝台急行天の川』だ」  十津川は自分でコーヒーをいれ、それを机に置くと、椅子に身体を埋めるようにして、ワープロで打たれた原稿に眼を通すことにした。  第二章 惜別の列車     1 〈私が秋田行の寝台急行「天の川」の取材を頼まれて、二つ返事で引き受けた理由は、三つある。  第一は、私がもともと大阪の人間で、中国、九州にはしばしば旅行していたが、東北、上越にはほとんど行っていなかったことである。特に、秋田は初めての町だった。  第二に、この列車が、来年の三月十四日、上野駅まで新幹線が通るようになる日に、廃止になると聞いたからである。私は少しばかりセンチメンタルなところがあって、消えていくものが好きなのだ。  第三の理由は、私自身の思い出につながっている。  私は大阪から東京へ引っ越す時、新幹線を使わずに、寝台急行「銀河」に乗った。この列車に使われている20系と呼ばれる、女性的で優雅な寝台客車が、前から好きだったからである。以来、大阪へ行く時は、急ぎの用事以外、この寝台急行を利用していた。上野─秋田の寝台急行「天の川」も、この20系の客車を使っていると聞いた。  十二月十四日に行くことにして、切符を買っておいたのだが、たまたまイラストレーターの加藤由紀さんが同行することになった。  彼女は消えゆく「天の川」の絵を描きたいという。私は絵は苦手だから、写真をぱちぱち撮ってくることにした。  上野駅へ行くのは一年ぶりだった。  もちろん、新幹線の地下駅を作っていることは知っていたが、実際に上野駅に来てみると、一番端の19・20番線が板で囲われて工事の最中だ。新幹線の上野開通まであと何日といった大きな掲示板も、眼についた。  日本人は、オリンピックまであと×日といった掲示がすきらしい。私はやたらにせかされているようで、落ち着かなくなるのだが。  上越と東北の両新幹線が上野まで来ると、上野駅はどう変るのだろうか?  そのことを、前に何人かの人に聞いてみたことがある。答の八十パーセントは、上野駅は古めかしくて泥くさくて、東北の匂いのする現在の駅のままであって欲しいというものだった。近代的な駅になってしまっては、上野駅らしくないというのである。  私と由紀さんは、午後十時ジャストに上野駅に着いた。彼女はキオスクでみかんを買い、私は煙草とウイスキーのポケットびんを買った。  私たちはすぐ中央改札口に向った。上野駅で一番好きな所はどこときかれれば、私は躊躇《ちゆうちよ》なく中央改札口だという。  この改札口を入った地平ホームには、ずらりと長距離列車が並び、いかにも終着駅という感じだからである。  東京駅にも新宿駅にも、この雰囲気はない。  私は上野駅のこの地平ホームに来て、特に夜おそくまで、赤い尾灯をにじませながら夜行列車《ブルートレイン》がゆっくりと出発して行くのを見るのが好きだ。  今日も私たちが着いた時、奥羽本線経由の青森行|寝台特急《ブルートレイン》「あけぼの3号」が、15番線からゆっくり出発して行った。 「私は東京の生れだけど、上野駅のこのざわざわした雰囲気が好きだわ。いかにも、これから旅に出るという感じで」  と由紀さんが眼を輝かせていう。  東京駅はビジネスマンの姿が多いが、この上野駅は、長距離列車の場合は特に、旅支度をした老人や家族連れが多い。故郷に帰るという感じの人たちだ。  改札口の上に、「22・37 天の川」と書かれたサボ(サービスボード)が出ている。このサボはホームにも下っているが、駅員さんの話では、三月十四日に廃止されて電光掲示板になるのだという。  時代の流れだろうし、省力化にもなるのだろうが、何となく寂しい気がする。駅員さんがサボを代えていくのを見るのが楽しかったのだ。  駅員さんは笑いながら、このサボがなくなると聞いて、マニアの中には盗んでいく者がいるんですよ、といった。  私と由紀さんが地平ホームに入ってすぐ、お目当ての寝台急行「天の川」が14番線に入線して来た。  東京─大阪間の寝台急行「銀河」と同じ20系の客車である。  他のブルートレインが使っている14系の客車と比べると、全体に丸みを帯びていて、背の高い感じがする。女性的な感じといったらいいだろう。  私は寝台急行「天の川」の概略を、手帳にメモしておいた。  運転区間─高崎・上越・信越・白新・羽越本線の上野─秋田間。  走行距離─六〇三・五キロ。  運転本数─一往復。  車両─20系客車。  表定速度─五一・一キロ。  新潟─秋田間逆編成、20系統一編成で、A寝台を二両連結する唯一の列車。  寝台急行「銀河」と違う点は、A寝台が二両連結されているところである。  時刻表で見ると、電源車にA寝台二両と三段式のB寝台八両の十一両編成となっていたが、今日がウィークデーで乗客が少いせいか、B寝台が二両減って九両(客車だけなら八両)編成になっていた。  それも4号車と5号車がカットされているので、車両ナンバーを見てみると3号車の次が6号車になっている。  私と由紀さんはA寝台(2号車)の切符を買っていた。真ん中あたりの席で、彼女が下、私が上である。  まだ発車まで時間があるので、私はホームに降りて、何枚か写真を撮った。  私は、夜行列車は前方から見るよりも、後方から見る方が好きである。  電気機関車が勇ましく、長い客車を牽引《けんいん》して走って来る姿もいいには違いないが、私には、テールマークと赤い尾灯が夜の闇の中に消えて行くのが、より夜行列車らしいと感じられた。 「天の川」のテールは、他のブルートレインと違って貫通式の車両ではないので、すっきりしている。  三つある窓のうち、中央の大きな窓が印象的だし、ゆるい曲線のふくらみを持っているのも素敵だ。  私と同じ気持の乗客もいるとみえて、三人ほどの乗客がしきりにカメラのシャッターを切っていた。     2  二二時三七分。  定刻に、私たちを乗せた寝台急行「天の川」は上野駅を離れた。  東京─大阪間の「銀河」はビジネスに利用されるせいで、私が乗った時はたいてい七、八十パーセントの乗車率だったが、「天の川」の方は、A寝台でも空席が目立った。全体でもせいぜい三、四十パーセントの乗車率ではないか。  それでも、三月十四日に廃止されてしまうのは惜しい気がする。上野から夜の十時半過ぎに乗って、翌日の午前十時半に乗りかえせずに秋田に着けるのである。確かに時間はかかるが、こういう列車があってもいいような気がしてならない。  由紀さんは眠れないのでスケッチブックを取り出し、2号車の車内や、窓の外に現われて行く東京の夜景をスケッチするといった。  私は取材をしなければならないので、カメラを持ってまず2号車の乗務員室を訪問した。  車掌長の春日さんに会った。五十五歳の小太りの、いかにも好人物といった感じで、やはり国鉄一筋に生きてきたのだという。昔は国鉄一家といういい方があって、父親が国鉄で働いていたので子供も国鉄へ入った、というのが多かったらしい。 「私の親爺も国鉄で働いていました。戦前ですがね」  と春日さんはいった。  彼の二十六歳の息子も、現在、上野駅で働いているという。本当の国鉄一家なのだ。  車掌長の春日さんの他に、この「天の川」には車掌長一人、専務車掌二人が乗務していた。  いずれも五十歳前後で、国鉄一筋の人たちばかりである。「さくら」や「富士」といった幹線のブルートレインでは、最近、四人乗務から三人乗務になっているのに、なぜこの「天の川」では四人乗務のままなのかきいてみた。  返事は、20系客車のせいだという。20系客車では車掌の手仕事の部分が多いらしい。私は春日車掌長が車内改札の仕事を終えるのを待った。この「天の川」が来年の三月十四日に廃止されるのをどう感じているのか、聞いてみた。 「そうですねえ」  と春日さんは眼鏡の奥の眼を小さくしばたたいて、 「私はね、この列車が五十一年の十月に、20系に置きかえられた最初の日に乗務したんです。今まで寝台特急にしか使われなかった客車が、寝台急行にも使われることになったんです。だから私は、今でもこの20系客車が好きなんですよ。この『天の川』という列車そのものもね」 「じゃあ、残念ですね」 「もう、こんな優雅な客車は出来ないでしょうねえ。機能的な客車はいくらでも作られるでしょうがね」 「春日さんはどこの生れですか?」 「この列車の途中駅の鶴岡というところです。山形県です」 「なるほど」  私が肯くと、春日さんは照れたように頭に手をやった。 「訛《なま》りがありますか?」 「少しね。でも気になりませんよ」  と私はいった。いってしまってから、少しぐらい訛りが残っていた方がいいですよといい直した。乗客も、自分たちの世話をしてくれる車掌に故郷の訛りがあった方が、ほっとするだろうと思ったからである。  私は他の車両へも足を運んでみた。  三段式のB寝台の方は寝台の幅が狭くて寝にくいせいか、乗客の殆どはまだ起きて寝台に腰かけていた。週刊誌を読んだりビールを飲んだり、お喋りをしたりしている。  通路の折りたたみ式の椅子に腰かけて、窓の外の夜景を見ている乗客もいた。  故郷の酒田に帰るという六十歳のおばあさんがいたので、「天の川」が廃止されることをどう思うか、きいてみた。  おばあさんは、酒田に帰る際はいつもこの「天の川」を利用しているのだという。  私を国鉄の人間と思ったらしく、 「偉い人にいっといて下さいよ。こんな便利でいい汽車を廃止なんかしないでくれってね」  といった。  あと四、五人にも会って「天の川」の廃止の感想を聞いてみたが、お年寄りは廃止に反対、若者は意外にクールで、新幹線を利用するからいいという声が多かった。すでに来年三月十四日の廃止が決っているから、今更、あれこれいっても仕方がないという顔をしていた。諦めがいいのも、今の若者の特質なのだろうか。  私は彼等ほど諦めもよくないし、悟り切ってもいない。それに、私は20系客車が好きだ。上越新幹線を上野まで通すより、いや、通してもいいが、この寝台急行「天の川」を廃止しなくてもいいではないか。  廃止する理由は、赤字だからということだろう。しかし、赤字の額からいえば、上越新幹線の方がはるかに大きい。だが、出来たばかりの新幹線を誰も廃止しようとはいわない。当り前だが、私は腹が立つのである。  二三時〇三分に大宮に着いた。  今は上越、東北の新幹線の始発駅になっていて乗降客で賑わっているが、上野始発になったらどうなるのだろうか。  大宮でも、数人の客が「天の川」に乗って来た。  もう寝台にもぐり込んで、軽い寝息を立てている乗客もいたが、私は取材という仕事があるので、大宮駅のホームを写真に撮らなければならない。 「あなたも大変ですな」  と春日車掌長が声をかけてくれた。  次の熊谷着は二三時三八分。ここは二分停車である。  由紀さんは二枚のスケッチを描き終って、先に眠ってしまった。  〇時二二分、高崎着。  ここは八分停車なので、私はホームに降りてみた。  人影のないホームに、明りだけがこうこうとついている。ここでも五、六人の乗客があった。しばらくホームに立っていると、さすがに北国の冷気が身にしみてきて、私はあわてて車内に戻った。  列車が動き出した時、ああ、もう十二月十五日になったのだなと思った。列車の中で翌日を迎えるというのは、久しぶりだった。悪い気分のものではない。特に今度のように起きていると、列車と一緒に、翌日に向って突き進んでいるような気がする。  次の停車駅は水上駅の一時三九分である。  自分の寝台に横になり、水上あたりまでは起きていようと思っていたのだが、ポケットびんを飲んだせいか、いつの間にか眠ってしまった。  眼がさめた時、列車は新潟駅に停っている。  窓から見ると、まだ外は暗く、ホームには明りがついていた。腕時計は午前五時十二分である。新潟発は五時三〇分の筈だから、あと十八分の停車だった。  私は着ていたシャツの上からコートを羽おった珍妙な恰好で、カメラを持ってホームに降りた。  吐く息が白いのは、気温がかなり低いのだろう。  ホームの売店が開いていたら何か買おうと思ったのだが、あいにくまだ閉っている。  乗客の中にはまだ眠っている人たちもいるようだし、ホームは寒いので、降りてくる人も少いが、カメラやテープレコーダーを持った子供たちが数人、列車から降りてホームの端に集っている。  新潟で、上野から「天の川」を牽引して来たEF64型を切り離し、赤いEF81型に交換された。  子供たちはその様子を写真に撮り、音を録音しているのである。  EF64型を切り離したあと、今度は逆の方にEF81型を接続するので、子供たちはホームを走っている。  私は一緒に走るのが照れくさいので、その子供たちを写真に撮った〉     3  十津川は原稿から眼をあげ、さめてしまったコーヒーを飲んだ。 「どうですか? 面白い原稿でしたか?」  亀井が声をかけてきた。 「まあ、普通のレポートだよ。いままでのところ、このレポートが事件の引金になっているとは思えないね」 「そうですか、残念ですね」 「まあ、矢代利明の遺作として、K出版社に渡すより仕方がないだろうね」 「殺人事件の動機を示す証拠というわけにはいきませんか?」 「ここまで読んだ限りではね。どうも今度ばかりは、私の勘が狂っていたような気がする。この原稿が出て来なければ、間違いなく、そのために殺人が起きたと信じられるんだがねえ」 「私にも原稿や写真が出て来たのは意外でしたが、被害者の矢代が行きつけの喫茶店に忘れたというのでは、仕方がありませんね」 「これ以上読むのは時間の無駄かも知れないな。矢代の交友関係を洗った方がいいかも知れん」  十津川は自分にいい聞かせるようにいい、煙草をくわえて火をつけた。  私は由紀の言葉も思い出していた。彼女は、もしあの取材旅行のために矢代が狙われたのなら、同行した自分も狙われる筈ではないかといったのだ。  彼女の言葉にも一理あると思う。それに十二月十四日上野発の「天の川」では、何の事件も起きていない。 「カメさん。K出版社の岩間さんに電話してくれないか。矢代利明の原稿が見つかったとね」 「いいんですか?」 「もともとこの原稿は、K出版社へ渡すべきものだからね」  十津川がいい、亀井はすぐ受話器を取った。 「K出版社の岩間さんが、とても喜んでいましたよ」  と電話をすませてから亀井がいい、 「彼が取りに来るまでの間、私が読んで構いませんか?」 「ああ、いいよ」  十津川は原稿を亀井に渡した。  四十分ほどして、K出版社の岩間が捜査本部にやって来た。 「ありがとうございます。助かりましたよ」  岩間は原稿と写真を受け取りながら、何度も繰り返した。 「今から他の人に『天の川』に乗って貰おうと思っても、もう走っていませんからね」 「いつ本になるんですか?」 「これからゲラにして読み直すし、他の人の原稿もありますからね。どうしても一カ月はかかります。出来あがったら、まっ先に矢代さんの霊前に捧げますよ」  岩間は殊勝な顔でいった。 「他の本で矢代さんが、自分は嘘は書かない、事実のみを書くと、あとがきでいっているのを読みましたが」 「それが矢代さんのモットーだったんです」 「しかし、岩間さん。ノンフィクションというのは、もともと事実を書くものじゃないんですか?」  十津川がきくと、岩間は苦笑して、 「確かにそうですが、ライターの中には自分の書いたものの効果を高めようとして、嘘を書く人も時にはいらっしゃるんです。例えば、どこかのS字カーブの危険比を書くとします。実際にそこに行って調べてみると、意外にも一年に二回ぐらいしか事故が起きていない。しかも軽い事故ばかりとわかったとします。これではどう考えても面白いレポートにはならない」 「それで事故の回数を増やすわけですか?」 「そういう人もたまにはいるということです。矢代さんは、絶対にそれをしなかった人ですからね。彼の書いたものは、資料としても信頼がおけるといわれているんですよ。見たものを見たままに書く、それに何も加えないし何も隠さないと、矢代さんはよくいっていましたからね」 「しかし、この原稿の前半にざっと眼を通したんですが、消えて行く『天の川』に対して、かなり感傷的に書いていると思いましたがね」 「それも矢代さんの良さだと思いますね。矢代さんは感情が豊かな人だと思いますね。対象にのめり込むところがあります。しかし、だからといって嘘は書かなかった人ですよ」 「前にもききましたが、矢代さんに敵はいませんでしたか? よく作家同士でも、犬猿の仲というのがあるでしょう? 矢代さんにも、ライター仲間でそういう人がいたんじゃないかと思いますが」 「そりゃあいるにはいますが、だからといって殺人にまでは発展しませんよ。新宿のゴールデン街で、酔って殴り合うぐらいのものですよ」 「そう思いますが、矢代さんと仲の悪かった人たちの名前を教えて下さい」  と十津川はいった。     4  岩間は、しぶしぶだが何人かの名前を書いていった。  十津川はそれを亀井に渡した。 「一応、この人たちのアリバイを調べてくれないか。犯人はジョギング中の矢代に、毒入りのジュースを渡したに違いないからね。二十八日朝のアリバイだ」 「わかりました」  と亀井はいってから、コピイされた紙の束を十津川の机の上に置いた。 「何だい?」 「矢代の原稿のコピイです。さっき読みながらコピイしておいたんですよ」 「なぜ?」 「警部がもう一度、読み直したいんじゃないかと思いましてね。それに確か、前半しか読んでいらっしゃらなかったんじゃないですか。ひょっとすると後半が面白いかも知れませんよ」  亀井は軽く片眼をつぶって見せてから、若い刑事たちを連れて出て行った。 「カメさんにはかなわないな」  十津川は呟《つぶや》いた。が、その顔は笑っていた。亀井の言葉が図星だったからである。  今度の事件は、どうやら被害者の書いた寝台急行「天の川」の原稿には関係ないらしいと思いながら、それでもなお十津川は心の隅に、まだ引っかかるものを感じていたのである。  十津川はもう一度コーヒーをいれ、椅子に身体を沈め、亀井がコピイしてくれた原稿の続きを読み始めた。 〈少年たちは全員が高崎の小学生や中学生ということだった。みんな鉄道マニアで、その列車が来年の三月十四日になくなってしまうので、写真を撮るために乗って来たのだという。 「でも、これからどうするの? 今日は学校は休みじゃないだろう?」  私は心配してきいた。  少年たちは平気な顔で、この新潟駅で降り、新潟六時四二分発の大宮行の上越線経由「とき300号」に乗れば、彼等の学校のある高崎には八時一四分に着くので間に合うのだという。  小学生と中学生だが、同じ鉄道マニアのグループに入っていて、RaiI Way Club と書いたワッペンをつけていた。 「しかし、高崎でこの列車に乗った時は夜中の十二時過ぎていたんだろう。よく両親が許してくれたねえ」  と私がいうと、少年たちはあっけらかんとした顔で、 「僕たちが何に乗るのか知ってるし、前々から計画をたてていたから、ぜんぜん心配していないよ」  とこもごもいった。 「君たちは、もちろんこの『天の川』が好きなんだろう?」  私が更にきくと子供たちは顔を見合せてから、その中の一人が、 「20系の客車はカッコよくて好きだよ」  といった。  三月十四日にはなくなるのだが、最後の列車にも当然乗るつもりだともいう。  電気機関車の交換を終った「天の川」は午前五時三〇分、新潟駅を発車した。  少年たちはボストンバッグをホームに置いて、まだカメラを構えている。私を見送ってくれているわけではなかった。「天の川」が新潟駅を出るところを、写真に撮ろうとしているだけなのだ。  私も窓から彼等の写真を撮った。  こういう熱心な鉄道マニアの少年たちは、どこにもいると思う。東京駅でブルートレインの出発をカメラにおさめている少年たちにも会ったし、北海道のローカル線で旅をしたときにも、彼等はいた。  私は国鉄は赤字でも構わないと考えている。それは鉄道が、ただ単に乗客と物資を運ぶだけのものではないからである。  地方の文化、連帯といったものにも役立っていて、その価値は計算できない。少年たちに夢を与えることも、その一つだろう。  経済という点だけを考えて分割民営化が推し進められたら、恐らく新幹線と通勤電車だけになってしまうだろう。そうなった時、鉄道に夢を持つ彼等はどこへ行ってしまうのだろうか?  越後平野はまだ夜明けを迎えていない。  私が寝台に戻らず喫煙室で窓の外を眺めていると、由紀さんが起きてきた。 「寝てればいいのに、七時過ぎまで寝台をたたみに来ないよ」  私がいうと、彼女は煙草に火をつけてから、 「旅に出ると何となく興奮しちゃって、早く眼がさめてしまうの」  という。  数分で新発田《しばた》に着く。一分で発車。  新潟から日本海沿いに走っているのだが、暗くて海は見えない。  それでも、少しずつ明るさが増してきた。間もなく夜明けである〉     5  亀井たちから報告が入ってきた。  捜査本部の黒板には、岩間から聞いた六人の男の名前が書いてある。  いずれも矢代と同じライターで、過去に彼とせり合ったことのある人間だった。  二十八日の朝のアリバイが成立した人間は消していく。  亀井から電話が入るたびに黒板の名前が一人、二人と赤のチョークで消されていった。  四人目の名前が消えた時、十津川はその線はないなと思った。  岩間がいうように、殴り合うことはあっても殺すようなことはないのだろう。作品が勝負の世界に生きている人間にとっては、殺す以上の復讐の方法があるということか。それなら矢代を憎んでいても、殺すぐらいなら彼よりいい作品を書こうとするだろう。  陽が落ちてから雨になった。  梅雨の走りのような、じめじめした降り方である。  あと二名の調査は残っていたが、亀井はいったん捜査本部に帰っていた。その二人は現在、海外へ取材旅行に出かけていたからである。 「もう梅雨に入ったんですかねえ。こういう雨は好きになれんです」  亀井は窓の外に眼をやって、文句をいった。 「私も嫌いだよ」  と十津川がいった。  十津川は梅雨に限らず雨は好きになれない。唯一、我慢できるのは、酷暑の中の雷雨ぐらいである。雨の嫌いな理由は、十津川自身にもはっきりわからない。子供の頃は別に嫌いではなかったような気がするのだが。  電話が鳴り、十津川が受話器を取った。 「四谷署の交通係の吉田といいます」  と若い声がいった。 「私が十津川だが」 「こちらであった交通事故について、そちらに連絡した方がいいんじゃないかと思いまして」 「どんな事故だね?」 「一時間ほど前に、四谷三丁目の交叉点近くで女性が車にはねられました。女性の名前は加藤由紀です。そちらの殺人事件に関係して出ていた名前のような気がしたものですから、連絡したんですが」 「彼女は四谷三丁目のマンションに住んでいるんじゃないか?」  十津川の声が大きくなったので、亀井が寄って来て耳をすませた。 「そうです。『モラーダ四谷』の五〇二号室です」 「それで、彼女はどうなったんだ?」 「病院に運ばれましたが、まだ昏睡状態が続いているようです」 「病院の名前は?」  十津川は咳き込むようにきいた。 「四ツ谷駅近くの岸岡外科病院です」 「すぐ行く。君も病院に来てくれないか」 「やはり、そちらの事件に関係がありましたか?」 「あったよ。ありがとう」  十津川は電話を切ると、亀井を見た。 「お互いに雨は嫌だが、行ってみるより仕方がないね」 「犯人に先を越されたということでしょうか?」 「それを知りたいんだ」  十津川は、亀井と雨の中を四谷に向った。  病院に着くと、入口のところに若い警官が待っていてくれた。  電話をくれた吉田という警官だった。緊張した顔で静まり返った病院の中を案内しながら、 「はねたのは白い乗用車だったようですが、まだ見つかっていません」  と十津川にいった。 「事故の目撃者はいるんだね?」 「二人いるんですが、雨が降っていて二人とも傘をさしていたので、くわしくは見ていません。被害者がマンションから出て道路を横切ろうとした時、突然車が突進して来て、彼女をはね飛ばして逃走した模様です。目撃者は二人とも車のナンバーも、運転していた人間の顔も見ていません」 「車種の限定は出来ないのかね?」 「今、現場に落ちていた車の破片や塗装のはがれたものから、その作業をすすめています」  と吉田がいった。  病室には「面会謝絶」の札がかかっていた。  十津川と亀井は、手術を担当した医者に会った。この病院の副院長で、東田という外科部長である。 「運ばれて来た時、全身打撲で、何よりも頭蓋骨が陥没していましたね。手術は成功しましたが、昏睡状態が続いています」  と東田医師がいった。 「助かりますか?」 「助けるために努力していますが、今のところ五分五分ですね」  東田は医者らしい冷静さでいった。  今のところ、殺人未遂か事故かはわからない。が、十津川は殺人未遂に違いないと考えていた。自宅マンションを出た直後にはねられたということだから、犯人が待ち構えていたことも考えられるのだ。 「やられましたね」  と亀井もいった。 「同じ犯人と思うかね?」 「まず間違いないと思いますね。同一犯人なら馬鹿なことをしたものだと思います」 「なぜだい?」 「矢代と加藤由紀は恋人同士ですが、だから狙われたとは思えません。二人の仲をやっかんでいた人物というのはいませんから。となると、二人が去年の十二月十四日に寝台急行『天の川』に乗ったこと、その同乗記を今度矢代が本にすることが、犯人の動機になっていると考えられます。犯人は矢代を殺してから加藤由紀まで狙ったことで、それを明らかにしてしまったわけです」 「すると、どういうことになるのかね。犯人は矢代が『天の川』の同乗記を書くと知って彼を殺し、その原稿を奪おうとした。ところが、矢代のマンションには原稿がなかった。偶然その前日に、矢代はよく行く喫茶店で原稿を読み返していて、忘れて来てしまったんだ。そこで犯人は、矢代の恋人の加藤由紀が持っているのではないかと考えて、彼女を狙ったということかね」 「犯人が原稿が見つかったことを知らなければ、そうなりますね。それとも、犯人が十二月十四日の『天の川』の中で、矢代と加藤由紀に何かを見られたと思い、原稿とは関係なく二人を消そうとしたのかも知れません。いずれにしろ、犯人は『天の川』の件で二人を狙ったことは間違いないと思いますね」     6  十津川は亀井を病院に残して、捜査本部に戻った。  すぐ問題の原稿の残りの部分に眼を通すことにした。  もしこの原稿が矢代を殺させ、加藤由紀の生命まで危くしているとしたら、どこかにそれらしいことが書かれている筈である。  十津川は、楽しみながらページを繰っていった。 〈七時三一分。 「天の川」はあつみ温泉駅に着いた。いかにも日本の鉄道らしい駅名である。  前に北陸本線に乗った時も、温泉という名前のついた駅があったのを思い出した。  あれは確か加賀温泉駅と芦原《あわら》温泉駅だった。日本の鉄道にはいくつくらい温泉という名前のついた駅があるのか、そのうちに調べてみたいものだと思う。  あつみ温泉は、漢字では温海と書くらしい。温泉場のある駅だが、それにしてはひっそりと静かである。  この駅から、各車両の寝台をたたむ作業員が乗り込んで来た。昔は国鉄の職員がやっていたものだが、今は民間の会社に委託されている。  あつみ温泉に着く前に車内放送が、寝台を座席に変える作業が始まるので協力して下さいといっていたので、乗客は寝台から起き出していた。  私と由紀さんは2号車の通路に出て、作業員がてきぱきと寝台をたたむのを眺めていた。  まずカーテンをはずし、乗客が使った枕や毛布は上段の寝台におき、天井に寝台ごとたたみ込んでしまう。そうして、下段の寝台を座席に戻して終りである。  私はデッキに出て外の景色を眺めた。列車はずっと日本海沿いを走っている。  この辺りはトンネルがやたらに多い。険しい断層のところに鉄道を通したからだろう。それだけにトンネルとトンネルの間に見える景色は素晴らしい。  小さなトンネルに入るたびに、六つ、七つ、八つと私は数えてみた。十一まで数えてやめてしまった。その間に小さな駅を列車は通過する。  視界から日本海が消えて、列車は平野部に入った。庄内平野である。  午前八時ジャストに鶴岡に着いた。  ここではかなりの乗客が降りた。昨夜おそく上野を発ち、八時に着くのは丁度いい列車なのだろう。  三分停車で発車すると、車内販売で駅弁を売りに来た。 「天の川」には食堂車が連結されていないし、時間が時間なのでなかなかの売れ行きだった。  私と由紀さんも、幕の内弁当と鳥海釜めし、それにお茶を買った。  私たちは座席に腰を下し、少しばかり遅い朝食をすませた。旅に出るとお腹がすくものだ。二つの駅弁はたちまち胃の中におさまってしまった。  特に鳥海釜めしは、ご当地ササニシキの味付けご飯、とり肉、エビ、山菜などがのっていて美味《うま》かった。これで七百円なら安いと思う。  右手に線路が見え、それがゆっくり寄り添ってくる。陸羽西線である。その陸羽西線との合流点の余目《あまるめ》に着いた。  この名前の由来は、昔、戸数五十戸の小さな村で、それが増えてきた時、五十戸に余ったからあまるべといい、それがあまるめになったという。  それだけに急行、特急(止らないものもある)の停車駅にしては、ひっそりと静かだった。  最上川を渡って、八時三一分に酒田に着く。昔「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われた本間家のあるところである。庄内藩主は当時十四万七千石の大名だったから、それより富裕な豪農だったことになる。今、本間家の別荘は美術館になっている。  酒田で大半の乗客が降りてしまい、私たちの2号車もがらがらになってしまった。  天候が不安定で、陽が射したかと思うと粉雪が舞ったりする。冬の日本海はいつもこんな気候なのだろうか。  右手に優雅な山が見えてきた。二二三〇メートルの鳥海山である。これからはスキー客で賑わうのだろう。  遊佐、吹浦、象潟、仁賀保と停って、羽後本荘に着いたのは九時五〇分である。  ここから終着の秋田まで停車はしない。  羽後本荘を出てすぐ私がトイレに行き、そのあとデッキで煙草を吸っていると、突然、「矢代じゃないか?」と声をかけられた。  驚いて振り返ると、大学時代同じクラブにいた柳田が笑っている。こんな私事をここに書くのは、こうした偶然の出会いも旅の楽しさの一つだと思うからである。  大学を卒業したあと、柳田が新日本産業に就職したのは知っていた。同じ東京にいたのに、六年間一度も会わなかった。それがたまたま乗った列車の中でぱったり会う。旅とはいいものである。  デッキで立ち話になった。  私がどこから乗ったのだときくと、上野から1号車に乗ったという。  その時ちょっと変な気がしたのは、私は取材なので1号車にも時々足を運んだが、彼の姿を見なかったからである。  しかしまあ、そんなことはどうでもいいことである。  デッキで私と柳田は大学時代の思い出を話し合い、卒業してから今日までのことを教え合った。  私が取材で乗っているというと、柳田は羨ましそうな顔をし、秋田の親戚で叔父に当る人が病死し、今日の午後二時から告別式があるので、それに出席するのだという。  昨日、会社の仕事が終ってからこの「天の川」に乗った。秋田には一〇時三〇分に着くので、丁度いいのだと柳田はいった。  考えてみると、列車に乗る客は様々だと思う。私のように取材で乗る者もいるし、新潟で降りた少年たちのような鉄道マニアもいる。そうかと思うと、柳田のように親戚に不幸があって乗る者もいるのだ。  ──まもなく終着秋田です。秋田には定刻の一〇時三〇分到着です──  という車内放送が流れた。  私は柳田と東京での再会を約束して、自分の席に戻った。  由紀さんに六年ぶりに旧友に会った話をすると、彼女も何カ月か前、新幹線の中で偶然幼友だちに再会したという。こちらは何と、二十年ぶりだったそうである。 「だから旅って素敵」  と彼女はいった。  寝台急行「天の川」が来年の三月十四日に廃止されることになっていなければ、出版社も私に同乗記を書くようにと頼まなかったろう。そうなれば、永久に柳田に会わなかったかも知れないのである。  一〇時三〇分。  定刻に「天の川」は秋田に着いた。  雪こそ降っていなかったが、ホームに吹きつけて来る風は冷たかった。  間もなくこの辺りは、豪雪で覆われるのだろう。  私はホームに立って、改めて私たちを運んでくれた寝台急行「天の川」を見直した。  好きな後姿を廻って、もう一度眺めた。  貫通式のドアのない、ふくらみを持ったバックはやはり夜行列車のクィーンにふさわしいと思う。ただ一つ不満をいわせて貰えば、中央のテールマークに「天の川」の文字が入っていないことである。  同じ20系客車を使っている寝台急行「銀河」には、絵入りのテールマークがちゃんとついている。  来年の三月十四日に消えてしまう「天の川」である。ご苦労様という意味でも、きれいなテールマークを付けて走らせてやりたいものだと思う。  私たちが改札口に向って歩き出した時には、もう「天の川」から降りた乗客はあらかた消えてしまっていた。  秋田の町は────〉  第三章 確  執     1  このあと十二月の秋田の町の気配が少し書いてあったが、十津川はここで眼をあげた。  この同乗記の中で個人名が出てくるのは、第一に矢代の恋人の加藤由紀、春日という車掌長、それに車内で偶然出会った大学時代の友人柳田である。  もし犯人が、自分のことが矢代の原稿に書かれては困るので殺したとすれば、この三人をマークする必要があるだろう。  加藤由紀は、彼女自身、犯人に狙われたから犯人ではないし、犯人と直接結びついてはいないと考えられる。  春日車掌長はどうだろう?  十二月十四日の「天の川」で、春日が矢代と出会ったのは偶然である。  それに、春日が十二月十四日の「天の川」に乗務した時は、矢代以外にも何人も乗客がいる。秋田車掌区の人間ももちろん春日が乗務したことを知っている。とすると、矢代と加藤由紀だけを殺してもどうしようもないだろう。  となると、残るのは柳田という矢代の友人である。  翌日、十津川は原稿の中にあった新日本産業に電話をかけた。  新日本産業は大手の商事会社で、本社が東京で、五つの支社がある。  十時になっているので、社員は出社している筈である。人事課に廻して貰ってから、 「そちらに柳田さんという社員がいらっしゃる筈なんですがね。年齢は二十八歳だと思います」 「調べてみます」  と男の声がいい、社員名簿でも調べているようだったが、 「うちの営業第一課におります。第二係長で、名前は柳田敏夫です」 「じゃあ、営業第一課に廻して下さい」  と十津川は頼んだ。  なかなか相手が出ない。大きな会社ではよくあることだった。突然、 「営業第一課ですが」  という女の声になった。 「そちらの柳田敏夫さんと、お話がしたいんですがね」 「おりません」 「いない?」 「ええ。まだ出て来ておりません」 「じゃあ、住所と電話番号を教えて貰えませんか。至急会って話を聞きたいことがあるんです」  十津川がいうと、また、五、六分待たされてから、横浜市の住所と電話番号を教えてくれた。マンションである。  十津川はその電話番号を廻してみたが、相手はいっこうに出る気配がなかった。  そのうちに他の電話に出ていた亀井が、 「警部。神奈川県警から電話です」 「神奈川?」  十津川は、はっとして、亀井の差し出した受話器を取った。 「神奈川県警の青木です」  と相手がいった。 「五日前に金沢八景の住宅の床下から、白骨化した死体が発見されました。若い女性とだけはわかったんですが」 「それは新聞で見ました」  と十津川はいった。 「昨日になって、やっと身元が判明しました」 「それは良かったですね」 「横浜市内、伊勢佐木町のクラブ『秋』のホステスで、名前は長井みどり、二十四歳です。親しくしていた男が数人おりましてね、殺された理由もそんなところにあると考えたわけです。その男たちの中で、彼女に一番熱をあげていたのが新日本産業の柳田敏夫、二十八歳です」 「ほう」  思わず十津川は声を出した。 「実は、柳田には上役の娘との結婚話がありましてね、それでホステスのみどりが邪魔になった。よくある話なんですが、それは本当です。部長の娘と今年の秋に結婚することになっています」 「それで、逮捕したんですか?」 「参考人として事情をきいている段階です。問題は、去年の十二月十四日午後十一時五十分から翌十五日の正午までのアリバイなんですが」 「ちょっと待って下さい。白骨死体なのに、よくそれほど死亡時刻を限定できましたね?」  十津川がきくと、青木は、 「それはこういうことなんです。去年の十二月十四日に、みどりはいつものようにクラブ『秋』で働いていました。この店は看板が十二時なんですが、その少し前に彼女に男から電話がありました。名前はわかりません。みどりはそのあと店のママに用事が出来たのでといって、看板の十分前に帰ったんです。その後、彼女を見た者はいません。従って十二月十四日の午後十一時五十分までは、生きていたことになります」 「なるほど」 「次は死体が見つかった家ですが、去年の十二月十四日までに土台が出来ていて、翌十五日の正午からその上に建築が始まったのです。つまり、犯人がみどりを殺し、死体をその家の床下に埋めたのは、十二月十四日の午後十一時五十分から十五日の正午までということになるわけです」 「それで納得できました」 「その家を他の家と一緒に業者が買いましてね。マンションを建てるのでこわしていて、死体が発見されたんです。それで柳田に、去年の十二月十四日の夜から十五日の昼までのアリバイをたずねてみたんですが」 「柳田は、十二月十四日に上野発の寝台急行『天の川』に乗ったといったんじゃありませんか?」  十津川は先廻りしてきいた。 「そうなんですよ。ただ、それを証明するのが難しかったんです。当日、『天の川』に乗務した車掌四人の名前はわかりましたが、乗客の一人一人を覚えている筈がありませんからね。よほど特徴があれば別でしょうが、柳田は平凡な顔立ちの男ですからね。ただ、十五日の午後二時からの秋田での叔父さんの告別式に出席しているのは、問題はありませんでした」 「なるほど」 「しかし、前日の夜二二時三七分上野発の『天の川』に乗らなくても、午後二時からの告別式には出席できます。例えば当日十五日の朝、大宮七時〇五分発の上越新幹線に乗ると、八時五〇分に新潟に着きます。新潟で九時〇五分発の特急『いなほ3号』に乗れば、一三時〇六分には秋田に着きます。午後二時の告別式に出席できるわけです」 「なるほど、それで『天の川』に乗ったかどうかが大事になってくるわけですね」 「そうなんです。柳田が実際に二二時三七分上野発の『天の川』に乗り、秋田まで行ったとすると、彼はシロということになります。彼が『天の川』に乗った時には、長井みどりはまだ生きていて、横浜のクラブ『秋』で働いていたわけですからね」 「柳田は今日になって、『天の川』の車中で大学時代の友人に会ったことを思い出した。それで私に連絡して来られたんですね?」 「そうなんです。柳田は、矢代利明という友人に会ったから、彼に聞いてくれといい出したわけです。ところが調べてみると、この友人が殺されていて、あなたがその事件の捜査に当られていると伺ったので、電話を差しあげたんです」 「すぐこちらへ来ませんか。面白いものをお見せしますよ」  と十津川はいった。     2  一時間ほどして、神奈川県警の青木警部が世田谷署に駈け付けて来た。  三十七歳だというが、もっと若く見えた。痩せて背の高い、なかなかの美男子である。  十津川はその青木に、矢代の原稿のコピイを見せた。 「柳田のことは後半に出て来ますよ」  と十津川はいい、青木にコーヒーをいれてやった。  青木は肯いて、半分あたりから眼を通していった。  十津川は傍にいてはかえって青木の気を散らすことになるだろうと思い、亀井と窓際に寄って煙草に火をつけた。 「面白い展開になって来ましたね」  と亀井が、青木警部の方を見ながら小声で十津川にいった。 「これで、矢代が殺されたのはどうやらあの原稿のせいだと思えてきたね。というより、矢代が去年の十二月十四日に『天の川』に乗ったせいで、殺されたと見ていいんじゃないかね」 「犯人は、柳田という男のアリバイを消すために矢代を殺したことになりますね」 「去年の十二月十四日の夜、犯人は横浜のクラブのホステスを殺して、死体を金沢八景の造成地に埋めた。犯人にしてみればそこに家が建ってしまえば、永久に掘り返されることはないと考えたんだろう。ところが家の持主が今年になって売ってしまい、買った方はマンションを建てることにして、地面を掘り起こした」 「それで、白骨死体で発見されたわけですね」 「身元不明でね。だが、遠からず身元はわかってしまう。被害者は犯人の男と関係があった。犯人は、多分、その中の一人だろうと思うね。当然、自分も調べられる。柳田もその中に入っていて、一番、被害者と親しかったらしい。第一の容疑者というわけだよ」 「その柳田にアリバイがなければ、彼が犯人として逮捕される。犯人はそう考えたわけですね」 「犯人はどこかで、十二月十四日に柳田が寝台急行『天の川』に乗って、車中で友人の矢代に会ったことを知った。それで矢代を殺して、柳田のアリバイを消そうとしたんじゃないかね。ついでに原稿も処分したかったのだろうが、それを見つけられなかったんだね」 「矢代の恋人の加藤由紀まで殺そうとしたのは、彼女も『天の川』に乗っていて、柳田と話をした可能性が出て来たからですかね」  亀井が考えながらいう。 「ともかく、矢代の原稿が残っていて良かったよ。矢代が問題の『天の川』の車中で柳田と出会ったことは、書き残しておいてくれたわけだからね」  十津川はちらっと青木警部を見た。  青木は原稿を読み終えて、じっと考え込んでいた。     3 「この原稿をお借りして行って構いませんか?」  と青木が十津川にきいた。 「それなら、今、コピイさせましょう」 「悪いですね」 「多分、そちらと合同捜査ということになると思うからですよ」  十津川が微笑すると、青木は肩をすくめて、 「そんなふうにはならないと思いますよ」 「なぜですか? 横浜の殺人事件について、その原稿が重大な意味を持っているのは間違いないんでしょう? また東京では、その原稿のために作者の矢代が殺され、恋人も襲われたんですよ。当然、合同捜査の必要があると思いますがねえ」 「この原稿で柳田のアリバイが証明されたとは思いませんね。だから合同捜査の必要はないでしょう」  青木は相変らず、冷静な口調でいった。 「なぜですか? それによると、柳田は間違いなく十二月十四日上野発の寝台急行『天の川』に乗っていたわけですよ。作者の矢代という男は事実だけを書き、嘘は絶対に書かない人間なんです。それで信頼を得ているんです」 「それは知っていますよ」 「じゃあなぜ、柳田のアリバイの証明にならないというんですか?」 「十津川さんもこの原稿をお読みになったんでしょう?」 「読みましたよ」 「じゃあすぐ気がつかれた筈です。筆者の矢代は、確かに『天の川』の車内で柳田に会ったと書いている。しかし、それは秋田に近く、羽後本荘を過ぎてからです。しかも矢代は、柳田が上野から1号車に乗っていたというが、どうもおかしい、1号車も見た筈だが柳田はいなかったような気がすると書いている。違いますか?」 「そこは私も読みましたが──」 「じゃあ、この原稿が柳田のアリバイを完全には証明していないことは、おわかりでしょう?」 「でも、乗っていたことは証明していますよ。羽後本荘を過ぎてからであろうと」 「柳田は横浜で女を殺し、金沢八景に埋めたあと、『天の川』を追いかけて乗り込み、たまたま乗っていた大学のクラスメイトの矢代に声をかけ、アリバイを作ったんですよ。あの男なら、そのぐらいのことはやるんです」 「それを証明できますか?」 「もちろん、してみせますよ」  青木は自信満々にいった。 「青木さんに一つお願いがあるんだが」  と十津川がいった。 「何ですか? この原稿のことでご協力頂いたんですから、何でもおっしゃって下さい」 「今度、そちらに行きますから、柳田という男に会わせて貰えませんか?」 「そりゃあ構いませんが、なるべく早く来て下さらんと、われわれは柳田を検察へ送ってしまいますよ」  相変らず自信にあふれた声で青木はいい、コピイされた原稿を持って帰って行った。  亀井は青木の後姿を見送っていたが、彼の姿が消えるとやれやれという顔で、 「どうも、ああいうタイプは好きになれませんね」  と十津川にいった。 「なぜだい? カメさん」 「やけに自信満々じゃないですか。それに、こっちが合同捜査になりそうだといってるのに、その必要はありませんみたいなこともいう。どうも気に入りませんねえ」 「若くて頭が切れるんだよ」 「まだ三十代ですかね?」 「三十七歳だといっていたよ」 「三十七歳で警部ですか」 「エリートの典型さ。確かに彼のいう通り、矢代の原稿で、柳田という男のアリバイが完全に証明されたわけじゃないんだ」 「そうかも知れませんが、こちらの事件との関係はどうなるんです? 青木警部は完全に無視しているじゃありませんか。こっちはこっちで勝手にやれみたいなことをいっていますよ。どういう気なんですかねえ」 「明日、横浜へ行って、柳田という男に会ってみようじゃないか」 「明日ですか?」 「そうさ。青木警部がいってたじゃないか。早くしないと向うさんは柳田を検察へ送っちゃうよ」  十津川は笑いながらいった。     4  翌日の午後、十津川と亀井は国電で横浜に向った。  金沢八景に捜査本部が設けられていた。 「白骨死体殺人事件捜査本部」という札がかかる部屋に入って行くと、青木警部が十津川たちを迎えた。柳田は今朝、逮捕されていた。  青木は楽しそうに見えた。 「約束ですから柳田には会わせますが、彼の有罪はもう決ったようなものです」  と青木は勢い込んでいった。 「十二月十四日上野発の『天の川』に乗っていたという柳田のアリバイは、どうなるんですか?」  十津川がきくと、青木はそんなものはという顔で、 「あれは奴のアリバイ作りですよ」 「解明できたということですか?」 「もちろんです。簡単なトリックですよ。お聞かせしましょうか?」 「ぜひ聞きたいですね」 「これが、今は無くなってしまった寝台急行『天の川』の時刻表です。下りのね」  青木は黒板に書かれたものを、十津川と亀井に示した。  それは十津川も、去年の時刻表で確認したものだった。  二二時三七分の上野発で始まっていた。 「矢代の原稿によれば、彼が車内で柳田に声をかけられたのは羽後本荘を過ぎてからです。つまり、十五日の午前九時五一分を過ぎてからということになります」  青木は得意気に説明する。  十津川は黙って聞いていた。 「ということは、柳田は前日の十四日の夜、上野から『天の川』に乗らなくても、十五日の午前九時五一分に羽後本荘で『天の川』に乗れば良かったわけですよ」  青木は話を続けた。 「横浜で十四日の午後十一時五十分過ぎに女を殺し、地下に埋めてから、翌日『天の川』に乗れるわけですか?」  と亀井がきいた。 「楽に乗れるんですよ」  青木は鼻をうごめかせた。 「柳田の行動は次のようなものだったと思いますね。十二月十四日の夜、十一時過ぎに横浜のクラブ『秋』に電話をかけ、関係のあったホステス、長井みどりを呼び出しました。殺すためです。彼女は十一時五十分頃、店を出ました。柳田は彼女を殺し、死体を金沢八景の造成地に運び、地中深く埋めました。その上に家が建ってしまえば、永久に発見されることはないと考えたからですよ」 「なるほど」 「柳田がなぜこの日を犯行に選んだのか。それは、翌十五日の午後二時から秋田の親戚の家の告別式に出ることになったからです。どの列車に乗って行こうかと、時刻表を見ながらあれこれ考えているうちに、このアリバイ作りに着目したんだと思いますよ」  青木は一息ついた。 「さて、これからがアリバイ作りです。柳田は長井みどりを殺して地中に埋めるのに、何時間かけたか。それはわかりませんが、朝までには出来たと思うのですよ。柳田は十五日の朝、羽田空港に向いました。午前七時三〇発の秋田行の全日空871便に乗るためです。これに乗ると八時五〇分に秋田に着きます」   上野発 22時37分   大宮発 23時03分   熊谷発 23時40分   高崎発 0時30分   水上発 1時47分   長岡発 3時57分   見附発 4時09分   東三条発 4時21分   加茂発 4時30分   新津発 4時53分   新潟発 5時30分   新発田発 5時57分   中条発 6時10分   坂町発 6時22分   村上発 6時40分   あつみ温泉発 7時31分   鶴岡発 8時03分   余目発 8時19分   酒田発 8時40分   遊佐発 8時53分   吹浦発 9時01分   象潟発 9時25分   仁賀保発 9時36分   羽後本荘発 9時51分   秋田着 10時30分 「秋田空港から羽後本荘駅へ行ったというわけですか?」 「そうです。九時五十一分に羽後本荘駅に着けばいいのですからね。切符を買う時間などを考慮しても、九時四十分までに羽後本荘へ着けばいいわけです」 「適当な列車があるわけですから、秋田から羽後本荘へ戻る──」 「いや、ありませんよ。秋田空港から秋田駅まで遠いので、秋田駅に行くまでに時間がかかってしまいます。秋田空港からは、車を借りたんだとみています。秋田─羽後本荘間は三十六キロで、空港は秋田より南にあるから、一時間十分あればゆっくり羽後本荘へ行けます。奴は羽後本荘から『天の川』に乗り込むと、さも上野から乗っていたかのように、矢代に話しかけたわけですよ」 「たまたま矢代が乗っていたわけですが、もし彼が乗っていなかったら柳田はどうしたと思いますか?」 「その時は車掌に話しかけるかして印象づける気でいたと思いますよ。たまたま大学時代の友人の矢代が乗っていたので、これ幸いと話しかけたんですよ」 「しかし最初、柳田は『天の川』の中で矢代に会ったことを、いわなかったんじゃないんですか? そう聞きましたが」  十津川がいうと、青木は笑って、 「演技ですよ、演技です。最初から持ち出したのでは、いかにも作られたアリバイだと思われてしまう。それで奴は、あとになってから持ち出したんです」 「じゃあ、柳田敏夫に会わせてくれませんか」  と十津川はいった。     5  十津川と亀井は、取調室で柳田敏夫に会った。  最初の印象は、二十八歳にしてはひどく疲れた顔だなというものだったが、これは留置され殺人犯人扱いされているからだろう。  よく見れば整った顔立ちである。これできちんとネクタイをしていれば、エリート社員に見えるだろう。  今はネクタイを取りあげられ、白いワイシャツの襟元も汚れている。その上、不精ヒゲものびているので、印象はどうしても悪くなってしまう。 「煙草でもどうですか」  と十津川は、まず煙草を柳田にすすめた。  柳田は下から十津川を見上げるようにして、 「あなたはどういう人ですか?」 「東京警視庁の十津川です。こちらは亀井刑事です」 「なぜ僕を調べるんですか?」 「東京で矢代さんが殺されましてね、その事件を担当しているんですよ。それで、あなたに話を聞きたいと思ったんです」  十津川がいうと、柳田は一瞬、ぼんやりした表情になったが、急に眉をつりあげて、 「冗談じゃない! 矢代まで僕が殺したというのか?」 「そんなことはいっていませんよ」  十津川は苦笑しながら手を振った。 「じゃあ、僕に何を聞きたいんだ?」 「矢代さんが『天の川』に乗った時のことを書いた原稿のことは、知っていますね?」 「青木という警部から聞きましたよ」 「その原稿を見せて貰いましたか?」 「ええ」 「実際はどうだったんですか? 十二月十四日に、上野から寝台急行の『天の川』に乗ったんですか?」  十津川がきくと、柳田はぐっと睨《にら》むように見返しながら、 「何度いえばわかるんですか。ちゃんと上野から乗りましたよ。十四日に」 「それならなぜ、矢代さんは羽後本荘を過ぎてから会ったと書いたんでしょうか?」 「わかりませんよ。上野を出てすぐ彼に会ったんです」 「その時、声をかけたんですか?」 「もちろん。何しろ大学を出て何年ぶりかに矢代に会ったんですからね。おい、矢代じゃないかと、声をかけましたよ」 「あなたは1号車にいたんでしたね?」 「そうです。1号車の真ん中辺の下の段です。寝つかれないので、寝台に腰を下して週刊誌を読んでいたら、矢代が通りかかったんです」 「それを、青木警部に話しましたか?」 「もちろん、何度もいいましたよ。でも、全く取り合ってくれませんよ。矢代が死んで、いないのをいいことに、嘘をついているんだろうってね。そういわれてしまうと、上野を出てすぐ矢代に会ったことを証明するものは何もないんですよ」 「車は運転できますか?」 「ええ。車も持っていますよ。それがどうかしたんですか?」 「いや。殺された長井みどりというホステスとは、関係があったんですか?」  十津川がきくと、柳田は苦しげな顔になった。 「否定はしませんよ」 「そして、上役の娘さんとの縁談が持ち上っていた?」 「ええ」 「動機はあるわけですね」 「しかし長井みどりと関係があったのは、僕だけじゃありませんよ。何人も男がいたんです。犯人はその中にいるんです。調べてくれればわかりますよ」 「矢代さん以外に、あなたが上野から『天の川』に乗ったことを証明してくれる人はいないんですか?」  亀井がきくと、柳田は肩を落として、 「去年の十二月十四日のことなんですよ。それに、二二時三七分発の夜行列車なんです。乗客のほとんどは、すぐベッドにもぐり込んでしまいますよ。そんな状態の中で、僕のことを覚えてくれている人がいる筈がないじゃありませんか。僕だって乗客の中で覚えているのは、矢代だけなんですから」 「去年の十二月十四日より前にも、『天の川』に乗ったことがありますか?」 「そうですね、五、六年前に一度乗っています。やはり秋田へ行く時ですが」 「秋田へ飛行機で行ったことはありませんか? 羽田から秋田への飛行機があるでしょう?」 「ありますが、乗ったことはありません。外国へ行く時は飛行機に乗りますが、国内ではたいてい列車にしています」  と柳田はいってから、急にテーブルに両手をついてペコリと頭を下げた。 「僕を助けて下さい。僕は彼女を殺してなんかいないんです!」     6  十津川と亀井が取調室から出て来ると、さすがに青木は気になるらしく、 「どうでした?」  ときいた。 「一応、話を聞いただけです。柳田は上野を出てすぐ、車内で矢代に会って、声をかけたといっていましたね」 「それは当然ですよ」と青木は笑った。 「上野を出てすぐ矢代に会ったとなれば、柳田は長井みどりを殺せなくなりますからね。必死になって嘘をつくのは当り前でしょう」 「つまり柳田は、実際には翌朝、飛行機で秋田に行ったというわけですね?」 「その通りです」 「とすると、その飛行機に柳田が乗ったかどうかは調べられたんでしょうね?」  と十津川はきいてみた。  青木はニッコリして、 「もちろん調べましたよ」 「それで、どうでした?」 「十二月十五日の朝七時三〇分の秋田行の全日空機は、使用機がボーイング727で、定員は一七八名です。この日は一四六名の乗客だったそうです。乗客名簿を見せて貰いましたが、このうち二人の男の乗客が偽名で、住所も嘘でした。柳田が本名を名乗る筈がありませんから、この二人のどちらかが柳田だと思っています」 「柳田は『天の川』の1号車の真ん中あたりの、下段の寝台にいたといっていますが?」 「1号車A寝台の、下段の切符を買ったといっていましたよ。奴はこうしたんだと思います。前もって十二月十四日の『天の川』の1号車の切符を買っておいたんですよ。上野から秋田までです。そうしておいて、実際には十五日の朝、羽後本荘から入場券でホームに入り『天の川』に乗り、秋田では前もって買っておいた切符を出して、降りて行ったんです」 「しかし、それは青木警部の想像なんじゃありませんか?」  亀井がきいた。  青木はまたニッコリして、 「それについて、面白い話を聞いているんですよ」  と十津川にいった。 「どんなことですか?」 「問題の列車に、当日、乗車していた車掌長に電話してみたんです。矢代の原稿にあった春日という車掌長ですよ。彼は他の乗客のことは覚えていませんでしたが、さすがに矢代のことは、よく覚えていましたね。取材ということで、いろいろと質問されたということで」 「なるほど」 「しかし、面白いのはそんなことじゃありません。春日車掌長は、もう一つよく覚えていることがあるんだといいましてね。それはA寝台で、上野から秋田までの切符が売れているのに、車内改札の時、乗客がいなかった席があったというのですよ。十津川さんには、それが何を意味するかはおわかりでしょう?」 「柳田が上野から乗らなかったのに、上野から秋田までの切符を買っておいたということですか?」 「そうですよ。これで私は、柳田が犯人だと確信したんです」 「しかし、長井みどりを殺す可能性のある男は、他にも何人かいるんじゃないですか?」 「柳田がそういっているんでしょう?」 「それは事実なんですか?」 「確かに、四、五人の男と被害者が関係あったことは、間違いありません。しかし、柳田ほど強い動機の持主はいないんですよ」  青木は強い調子でいった。 「柳田が犯人としてですが、そうなると、東京で矢代が殺されたこととの関係は、どう思われるんですか?」 「二つ考えられますね。全く関係がないか、それとも柳田が殺したかです。自分で殺したかも知れないし、誰かに頼んで殺させたのかも知れません」 「なぜ柳田が矢代を殺すんですか?」 「金沢八景で白骨死体が発見されたことは、新聞に出ました。犯人の柳田としては、いずれ身元が割れて、自分が疑われると覚悟した筈です。それで友人の矢代に、アリバイの証明を頼んだ。本当は羽後本荘を過ぎてから矢代に声をかけたのに、上野から乗っていて話し合ったと、警察に聞かれたら証言してくれとです。しかし矢代は、事実を書くライターだったので、拒否したんだと思いますね。声をかけて来たのは羽後本荘を過ぎてからで、上野を出てすぐに1号車に行ってみたが君はいなかったと、きっぱりいったんだと思います。これではアリバイトリックがすぐわかってしまう。それで矢代を殺したんですよ。ただ、彼の書いた原稿まで訂正することは出来なかったということです」  と青木は自信満々ないい方をした。     7  十津川と亀井は、青木に礼をいって別れた。  梅雨の走りのように、どんよりと曇った日である。 「警部はどう思われましたか?」  歩きながら亀井がきいた。 「柳田が犯人かどうかということかね?」 「それもありますが、青木警部の自信ありげな態度が、どうも納得できないんですよ」 「柳田には、長井みどりというホステスを殺す動機がある。それに、柳田のアリバイトリックを見破ったという自負もある。自信満々でも仕方がないさ」 「矢代を殺したのも柳田というのは、どうですか?」 「その時間はあるんだ。矢代が殺されたのが五月二十八日の朝だ。柳田が県警に呼ばれたのは、翌日の二十九日だそうだが、前日に毒殺することは可能だったわけだよ」 「しかし、加藤由紀を車ではねることは出来なかったわけでしょう?」 「そうだ。彼女がはねられたとき、柳田は警察に事情聴取されていたからね」 「その辺は、どう解釈する気ですかねえ?」 「まあ、犯人は別だと考えるか、前もって柳田が、加藤由紀の口をふさぐことを誰かに頼んでおいたと、考えるんだろうね」 「これからどうしますか?」 「そうだな」  と十津川は腕時計に眼をやった。 「横浜市内で夕食をすませてから、長井みどりが働いていた『秋』というクラブに行ってみようじゃないか。もちろん神奈川県警、特にあの青木警部には内緒でね」  五時を過ぎていた。  二人は市内の中華料理店で、早目の夕食をすませた。  時間を計って、伊勢佐木町にあるクラブ「秋」に行ってみた。  まだ殆ど店の客はなく、ホステスもまばらである。  十津川は小柄なマネージャーに警察手帳を見せて、死んだ長井みどりのことを聞いた。 「みどりちゃんが殺されて埋められていたと聞いて、みんなびっくりしているんですよ」  マネージャーは、いくらか女性的な声でいった。 「今、柳田という男が、容疑者として逮捕されていることは知っていますか?」 「もちろん知っていますよ。柳田さんも、私どもには大切なお客様でしたから」 「柳田と長井みどりの関係は、知っていましたか?」 「それはまあ、いろいろと噂になっていましたから」 「彼女は柳田の他にも男関係があったと聞いたんですが、本当ですか?」  十津川がきくと、マネージャーは最初、困惑した表情で自分の指先を見つめていたが、重ねて十津川がきくと、 「そりゃあ、何人かの男の名前が噂にはなっていましたが──」 「知っていたら、教えてくれませんか」  と十津川は頼んだ。  こういう店のマネージャーというのは、ホステスの秘密に詳しいものである。特に、どんな客がついていたか、全て知っているだろう。何しろ、どの客にどのホステスを廻すかは、マネージャーの仕事だから。 「そうですねえ」  と相手はもったいぶって、考えるふりをしていたが、 「私は柳田さんが好きでしたからね。いいでしょう。あの人が助かるんなら、教えましょう」  といい、すらすらと三人の男の名前を教えてくれた。 「この他にも、噂のあったのが二人ぐらいいましたがね。まあ、殺すほど深みに入っていたと思うのは、今いった三人ですよ」 「ありがとう」  十津川は礼をいい店を出た。 「柳田という男は、人気があったんですね」  外へ出たところで、亀井がいった。 「なぜだい? カメさん」 「マネージャーが、柳田さんを好きだからといって、三人の男の名前を教えてくれたじゃありませんか」 「それはどうかな。多分、柳田は金払いのいい客だったのさ。ああいう店のマネージャーはシビアだよ。客の人柄なんかで動いたりはしないさ」 「そうでしょうか」 「それはともかく、マネージャーの教えてくれたこの三人だがね。全員、横浜市内に住んでいるそうだよ」  と十津川は立ち止って、手帳に書き留めた三人の名前を亀井に見せた。 「それじゃあ、調べるのが大変ですね。神奈川県警の青木警部は、柳田が犯人でこりかたまっていますからね」 「われわれが調べていると知ったら、彼は多分、怒鳴り込んで来るね」  と十津川は小さく肩をすくめた。 「しかし、この三人を調べ始めたら、いやでも青木警部にわかってしまいますよ」 「一つだけ方法がある」 「ありますか? 神奈川県警に知られずに、その三人を調べる方法が」  亀井が不思議そうに十津川を見た。  十津川は手を振って、 「知られずに調べるのは無理だろう。あの警部はこちらの動きに神経質になっているし、この三人のことは県警だって、一応、マークしたろうからね。われわれが聞き込みを始めれば、すぐわかってしまうよ」 「じゃあ、どうするんですか?」 「われわれも殺人事件の捜査に当っているんだ。矢代を殺した犯人の行方を追っている。それに、彼の恋人の加藤由紀を殺そうとした犯人もだよ。この三人は、われわれの事件の容疑者でもあるわけだよ。神奈川県警や青木警部が認めなくてもだ。長井みどりを殺した犯人が矢代も殺し、加藤由紀をはねた可能性があるわけだからね」 「そうでしたね。矢代殺害の容疑で調べる分には、別に県警に遠慮することはないわけですね」  亀井は急に元気がよくなった。  十津川は笑って、 「その線で調べていて、話がたまたま長井みどり殺しに及んでも、別にどうということはないと思うね」 「それでいきましょう」  と亀井は勇んでいった。     8  十津川は東京に戻ると、翌日、本多捜査一課長に事情を話した。 「その線でこの三人を調べてみたいと思っています」 「神奈川県警からクレームがつくんじゃないかね? 自分たちの捜査を妨害するものだといって」 「その時には、今申し上げた線で応対して頂きたいのです」 「向うは信じないだろう。その三人の名前がどうして浮び上って来たか、必ず聞くと思うがね」 「その時には、そうですねえ、殺された矢代のメモに、その三人の名前が書いてあったとでも答えておいて下さい。とにかく私としては、一刻も早く犯人を逮捕したいわけで、神奈川県警の邪魔をする気は全くありません」 「わかった。クレームがついたら、何とかさばいておくよ」 「課長はそういう点は名人だから、お願いします」  と十津川はいった。  三人の名前は次の通りである。  ○山本久栄(三十五歳)   伊勢佐木町で、レストラン「花」を経営している。  ○浜崎 透(四十三歳)   東京駅八重洲に本社のある中央興業の総務部長。エリートである。  ○白石清一(二十九歳)   カメラマン。横浜市内に事務所がある。  勤務先が東京の浜崎にしても、住所は横浜市内になっている。  亀井たちはすぐ、この三人に当ってみたのだが、たちまち壁にぶつかってしまった。  理由の第一は、矢代利明の殺されたのが五月二十八日の早朝だったことである。  死亡推定時刻は、二十八日の午前五時から六時になっていた。  東京の会社に出勤する浜崎にしても、世田谷で朝五時から六時の間に矢代を毒殺しても、九時の出勤時刻に悠々と間に合うのである。  他の二人も同様だった。  山本久栄についていえば、レストラン「花」は午前十時が開店である。東京の世田谷で五時から六時の間に殺人をやっても、十時までにはゆっくり横浜へ戻れるのである。  カメラマンの白石となると、なおさら時間はあいまいになってしまう。事務所に顔を出す時刻が毎日一定していないから、アリバイも自然にあいまいになってしまうのである。  それ以上に障害になったのは、彼ら三人と矢代との間に関係がないことだった。  少くとも現時点では、何の関係もないのである。加藤由紀となるとなおさらだった。  従って、相手に「なぜ見も知らぬ人間が殺されたことで、あれこれ質問されなければならないんだ?」と反撃されると、こちらはそれ以上の訊問が出来なくなってしまうのである。  それでも亀井たちは、三人の男の写真を手に入れた。  その写真をコピイすると、それを手にした刑事たちは、世田谷の矢代が殺された周辺と、加藤由紀が白い車にはねられた四谷三丁目附近の聞き込みを行った。  だが、これといった収穫はなかった。世田谷の場合は、早朝なので目撃者がいなかったし、四谷三丁目の方は、雨が降っていた上に、犯人は車に乗っていたからである。その車は、まだ見つかっていないのだ。 「どうも、壁にぶつかってしまいましたね」  亀井はお手あげのゼスチュアをして見せた。 「神奈川県警と合同捜査ということになれば、長井みどり殺しを突破口にして、訊問していけるんだがねえ」 「私もそう思いますが、これは向うさんが承知しないでしょう。青木警部は、柳田が犯人だと、頭から決め込んでいるようですからね。それに反対のこちらと、合同捜査はやらんでしょう」 「そうだな」  と十津川も肯いた。 「こちらがあの三人の捜査を始めたことで、神奈川県警から文句は来ませんか?」  亀井がきく。 「それが、不思議に何もいって来ないので、ちょっと薄気味が悪いんだがね」 「なぜですかね?」 「柳田犯人説がぐらつき始めたのか、その逆に起訴に持っていく自信が生れたのか、どちらかだとは思っているんだがねえ」  と十津川はいった。  翌日になって、そのどちらなのかわかった。  青木警部から十津川に電話がかかったからである。 「山本久栄、浜崎透、白石清一の三人を、そちらで調べられているそうですね」  青木は皮肉な調子をかくさずにいった。 「調べています。というより、調べました。しかし、長井みどりの件ではなく、東京で矢代が殺され、恋人の加藤由紀がはねられた件で調べたんですよ」  と十津川はいった。  当然、それについて反撥してくるだろうと覚悟したのだが、青木は意外に、 「それなら構いませんよ」 「それはどうも──」 「実は柳田ですが、今朝になってやっと、長井みどり殺しを自供したんですよ」 「本当ですか?」 「手こずりましたが、柳田も観念したんだと思いますね。申しわけありませんでしたと涙を流して、殺しを認めましたよ。それで、今日中に検察に送るつもりです。あの原稿をお借りしたこともあるので、一応、そちらにお知らせしておいた方がいいだろうと思いましてね」  青木は嬉しそうにいった。     9  亀井も、柳田が自供したという知らせに驚いていた。 「わかりませんね」  と亀井が首をかしげた。 「私にも意外だったよ」 「柳田が犯人だから自供したのか、それとも取調べがきつくて音をあげたのか、どちらかだと思うんですが」 「拷問かね?」 「いや、そうまでは考えませんが、あの青木警部なら、相手を眠らせずに訊問するぐらいのことはしかねませんよ」  と亀井はいった。  なぜ、突然、柳田が自供したのかはわからないが、これで神奈川県警との合同捜査の話は、消えてしまったといっていいだろう。  それに、ここに来て三人の男を、長井みどり殺しの容疑で十津川たちが調べたら、完全に内政干渉になってしまうだろう。  最近、警察の縄張り意識が批判の的になっている時、神奈川県警と事を構えるわけにはいかないのである。 「参りましたね」  亀井は溜息をついた。 「ああ、私も参ったよ」  と十津川も正直に肩をすくめた。  動きがとれないというのは、こういうことをいうのだろうと思った。  世田谷で矢代というライターが殺された。彼が殺される理由は見つからなかった。ということで、去年の十二月十四日に矢代が乗った、寝台急行「天の川」のことが理由ではないかと思われた。  そして、浮び上って来たのは柳田である。  去年の十二月十四日の夜、横浜のクラブ「秋」の長井みどりというホステスが殺され、埋められた。  その白骨死体が今年の五月になって発見され、関係のあった四人の男のうち、一番容疑の濃いのが柳田だった。  神奈川県警は柳田に狙いをつけた。  柳田の唯一のアリバイは、十二月十四日の夜、寝台急行「天の川」に乗って秋田に行ったことである。  十津川は、そのために矢代が殺され、加藤由紀がはねられたと思っているのだが、神奈川県警の青木警部は、横浜と東京の事件はそれぞれ独立したものと考えているらしい。  向うは、長井みどり殺しの犯人として柳田を逮捕した。  矢代の書いた原稿は、柳田のアリバイ証明にはならなかった。そのアリバイを崩したのは、青木警部の推理である。 「警部は誰が矢代を殺し、加藤由紀をはねたとお考えですか?」  と亀井がきいた。 「それは、長井みどりを殺した奴さ」 「すると、柳田ということになるんですか?」 「かも知れない。とにかく柳田のアリバイは崩れたし、自供したからね」 「すると、柳田が矢代も殺し、加藤由紀をはねたことになりますか?」 「もしそうなら、神奈川県警に頼んで、柳田を矢代や加藤由紀のことで訊問させて貰うよ。県警だって、これには反対しないだろう。柳田が長井みどりを殺したことには、異論を差しはさまないんだからね」 「すると、警部は違うとお考えなんですか?」 「柳田は矢代を殺すことは出来た。矢代は五月二十八日の早朝に毒殺されたが、柳田が呼ばれたのは二十九日の午後だ。だから、加藤由紀をはねることは出来ない。誰かに頼めば別だがね」 「すると、残りの三人の中にいることになって来ますね」 「ところが、もしあの三人の中の一人が矢代を殺し、加藤由紀をはねたとすると、その動機は、二人が去年の十二月十四日に、『天の川』の車中で柳田に会ったことにあるとしか思えない。とすれば、柳田は長井みどりを殺していないことになってくる」 「そうですね」 「しかし、柳田の無実を証明するのは難しいよ。彼が自供してしまっていると、神奈川県警が反対するに決っているからだ。何の証拠もなしに神奈川県警とケンカは出来ないよ」 「柳田が無実とすると、なぜ自供したんですかねえ」 「自棄《やけ》を起こしたのかも知れないね」 「といいますと?」 「彼は大会社のエリート社員で、上役の娘との結婚話も決っていた。殺人容疑で逮捕されて、それが全てパーになった。それで自棄を起こしたんじゃないかと思ってね。大企業というのは、こういう時、非情だからね。社員の柳田を勇気づけるよりも、馘《くび》にした方が会社に傷がつかないと考えるからね」 「そうかも知れませんね」  と亀井は肯いた。  だが、袋小路に入ってしまったことに変りはなかった。  第四章 思い出の列車     1  柳田が正式に起訴された。  もう一つ十津川にとって痛手なのは、加藤由紀の意識がいぜんとして戻らないままだということだった。  十津川は急に、本多捜査一課長と一緒に三上刑事部長に呼ばれた。  こんな時はたいてい悪いことだった。  案の定、三上部長は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。 「十津川君。君は近く告訴されることになるぞ」  と三上は、じろりと十津川を見ていった。 「誰が私を告訴するといっているんですか?」  十津川がきいた。 「山本久栄を知っているだろう?」 「はい。横浜市伊勢佐木町で『花』というレストランをやっている男です」 「彼の顧問弁護士から通告して来ているよ。こちらが謝罪しなければ、告訴するというんだ。君は山本久栄を取調べたんだろう。神奈川県警に内緒でだ」 「他に二人です。全部で三人について調べました」 「山本久栄の弁護士の話はこうだ。長井みどりの件については、すでに神奈川県警の取調べを受けた。ところが警視庁の十津川という警部は、自分とは何の関係もない東京の殺人事件についてあれこれ訊問し、調べ廻った。しかも、自分と東京の事件とどんな関係があるのか、何の説明もせずにである。これは明らかに不当な捜査だ。謝罪がなければ告訴するといってるんだ」 「他の二人はどうですか?」 「弁護士の話では、他の二人も、それぞれの弁護士と相談しているそうだよ。私と本多課長も、そうした不当な捜査を許可したことで告訴するといっている」 「申しわけありません」 「どうするつもりだね?」 「確かにやり過ぎたことは事実ですから、向うがどうしても謝罪しろというのなら、謝って来ますが」 「ちょっと待ちたまえ」  と黙っていた本多が口をはさんだ。 「何だね?」  三上が本多を見た。  本多は三上に眼を向けて、 「もし十津川君が謝罪したら、相手は鬼の首でもとった気で、それをマスコミに発表するかも知れません」 「マスコミにかね?」  三上の顔色が変った。 「今度の十津川君の捜査は、殺人事件を解決するためにやったことで、人権を侵害したわけでもないと思います。それなのに告訴するような弁護士なら、何を企んでいるかわかったものじゃありません。マスコミに通報すると考えた方がいいと思いますね」 「じゃあ、告訴されるのを待つのかね?」 「その方がいいと思いますね」 「告訴されたら、否応なしにマスコミの話題になるぞ」 「しかし、時間が稼げます」 「稼げたらどうなるのかね?」 「私は十津川君を信じています。彼は問題の山本久栄を含めた三人の中に、矢代と加藤由紀を殺したりはねたりした犯人がいると確信したからこそ、非難を覚悟でその身辺を捜査したわけです。時間があれば、十津川君は証拠を見つけ、犯人を逮捕すると思います」 「もし彼の推理が間違っていたら、どうするんだ?」 「その時は私も責任をとります」  と本多はいった。     2  何とか三上部長も待つことに同意してくれて、十津川が捜査本部のある世田谷署に戻ると、亀井が、 「面白いことを聞きましたよ」  と小声でいった。 「事件に関係があることかい?」 「直接は関係ありません」  と亀井がいう。十津川はがっかりしながらも、亀井の話に興味を覚えて、 「どんな話だね? カメさん」 「例の寝台急行『天の川』ですが、廃止されてからも人気が高いので、今度、思い出の『天の川』として、同じ時間、同じ編成で一往復走らせるそうです」 「ほう」 「どうですか、警部。乗ってみませんか?」 「そうだな。今のままでは動きがとれない。乗ってみれば何か、解決の糸口が見つけられるかも知れんな」  十津川がそういうと、亀井はニッコリして、 「そういわれると思って、A寝台の切符を二枚、予約しておきました。出発は六月十三日の二二時三七分。全く同じ時刻です」  といった。  その思い出列車に乗って、何か事件解決へのヒントがつかめるという自信は、十津川にはなかった。  全く同じ編成、同じ時刻表で運転するとはいっても、あくまでも六月十三日の「天の川」であって、去年十二月十四日の「天の川」ではなかったからである。  それに、十二月十四日の「天の川」に乗った矢代利明は死んでしまっているし、同行した加藤由紀はまだ意識不明である。  更に、間違いなく上野から乗ったと主張していた柳田は、拘置所の中にいる。  十津川は六月十三日の出発の前に、もう一度、矢代の原稿を読み直してみた。どこかに不自然なところがあれば、十三日に調べてみようと思ったのだが、二回、三回と読み直しても、別に不自然な箇所はなかった。  六月十三日の当日が来た。  十津川は矢代の原稿を持ち、亀井と上野駅に出かけた。  ひょっとすると雨になるのではないかと心配したが、夜に入って晴れてきた。  上野駅は、東北、上越の両新幹線が入ったことで、かなり変っていた。  ただ、全面的な改装ではないので、古い上野駅と新しい上野駅がくっついた感じがしないでもない。  午後十時に着いて、地平ホームに行ってみると、思い出列車「天の川」が出発する14番線ホームには、まだ列車が入っていないのに、カメラを持った子供たちが三十人近く集っていた。  テレビ局の腕章をつけて、テレビカメラを手に持った男たちの姿も見える。この「天の川」をニュースで放送するのだろう。  十津川と亀井も、改札口を通って14番線ホームに歩いて行った。  子供たちの歓声があがった。十一両編成の「天の川」が入線してきたのである。電源車一両、A寝台二両、B寝台八両の十一両である。  なつかしい20系の客車である。かなりくたびれているが、ブルーの車体に白い二本の線が美しい。  子供たちがホームを走り廻りながら、カメラのフラッシュをたく。中には車内に入って、寝台の写真を撮っている子供もいる。  十津川と亀井は2号車に入り、自分たちの切符の寝台に腰を下した。  発車時刻が近づくにつれて、乗客がどんどん乗ってきた。  十二月十四日の「天の川」は、矢代の記述によれば三十〜四十パーセントの乗車率だったらしいが、今日は満席だった。切符は全部、売り切れていると聞いた。  二二時三七分。定刻に「天の川」は上野駅を出発した。正確にいえば「思い出列車・天の川」である。  寝台急行として走っていた頃は、牽引する電気機関車にヘッドマークはつけていなかったのに、今日はついている。天の川をデザインしたものに「思い出列車・天の川」の文字である。  矢代が十二月十四日にそうしたように、十津川は2号車の乗務員室にいる車掌長に会ってみた。  あの時は春日という名前だったが、今日は山下という車掌長だった。年齢は五十五歳だという。 「この記念列車の乗車を思い出に、国鉄を辞めようと思っています」  と山下車掌長は、ちょっと寂し気な表情で十津川にいった。  定年ということもあるし、分割民営化でゆれ動く国鉄では、人員削減がテーマで、山下車掌長のように五十五を過ぎると、退職をすすめられるのだという。  なかなか退職の決心がつかなかったが、この思い出列車に乗れたのでふん切りがついたといった。  二十一歳から国鉄に勤めているので、三十四年間になるという。 「あと二、三回、この思い出列車を走らせてから、辞めたらどうですか? 満席になるのなら、国鉄にとっても損はないんじゃありませんか?」  十津川がいうと、山下車掌長は、 「私もそうしたいですが、この20系客車はリタイアすることになっていますので、もう二度と、『天の川』の思い出列車が走ることはないと思いますね。同じ20系客車が使われていた寝台急行『銀河』も、20系から新しい車両に取りかえられましたからね」  とちょっと寂しそうにいった。  新しい車両で「思い出列車・天の川」といっても、ファンは乗らないだろうともいう。  通路をカメラを持った子供たちが歩き廻っている。普通なら車掌が注意するのだろうが、今日は記念列車ということで笑っている。  列車は三月十四日までの時刻表に従って、大宮、熊谷と停車していく。  お休みの車内放送があったが、乗客にマニアが多いのか、寝つかれないらしく、デッキで煙草を吸ったり、寝台に並んで腰をかけて、小声でお喋りをしている。  高崎には〇時二二分に着いた。ここは八分停車なので、子供たちはホームに降りて、深夜の高崎駅をカメラにおさめたり、自分たちの乗って来た「天の川」の写真を撮ったりしている。  十津川と亀井もホームに降りて、煙草に火をつけた。 「何も起きませんね」  それが不満みたいに、亀井がいった。  二人の傍をカメラを持った子供が四、五人、駈け抜けて行った。最後尾の写真を撮ったので、今度は正面からの写真を撮るのだろう。子供は元気なものだ。 「起きなくて当然さ。むやみに事件が起きたら困るよ」  と十津川は笑った。 「ここまでは、矢代の原稿は正確ですか?」 「日時が違うから何ともいえないが、嘘は書いてないようだよ。だが矢代は、羽後本荘まで柳田を見てないんだから、この辺の描写はあまり意味がないんだよ」 「そういえばそうですね。ところで警部は、柳田が十二月十四日に、上野から乗ったとお考えですか?」 「どちらともいえないと思っているんだ。先入観を持っていると、どうしても正確な判断が出来なくなるからね。なるべく自然の状態で、この列車で秋田まで行ってみたいんだ」  と十津川はいった。  時間が来て、二人は列車に乗った。  再び走り出すと、さすがに子供たちも疲れたとみえて、それぞれの寝台にもぐり込み、静かになった。  十津川と亀井は喫煙室に腰を下して、窓の外に流れる夜景に眼をやった。 「私は矢代の原稿で、どうしても納得できない点があるんですが」  と亀井がいった。 「どこがだい? カメさん」 「あの中で、矢代が柳田に声をかけられますね。羽後本荘を出てから」 「それで?」 「その時、柳田は、上野から1号車に乗っていたといいます。それに対して矢代は、その言葉を不審がり、自分が1号車に行った時、柳田を見かけなかったと書いています」 「なぜ、そんなことをわざわざ書く必要があるのかということだろう?」 「そうです。警部も不審に思われたんですか?」 「最初はね。だが矢代は、いろいろな本の中で絶えず、自分は事実を書く、嘘は書かないと繰り返している。あれは、ノンフィクション作家としての覚悟を書いているんだろうと思うんだよ。その意識が、たまたま乗り合せた柳田のことを書いた時にも、働いたんじゃないかとね。青木警部にいわせれば、それが犯人の柳田にとって命取りだったということなんだろうがね」 「警部のいわれる通りかも知れませんが、私はどうしても引っかかりますねえ」 「どんなふうにだい? カメさん」 「矢代と柳田は大学を卒業して以来、六年ぶりに会ったわけですよ。とても懐しかったわけです」 「それは矢代も、原稿の中で書いているよ」 「そんなに懐しかったのなら、その友人が上野から乗ったというんだから、そのまま認めてやればいいと思うんです。それが友情というものじゃありませんか。私なら絶対にそうしますね」 「カメさんは人情家だからな」 「どうも私は、作家というのは好きになれませんね」  と亀井は眉をひそめた。  十津川は笑った。 「そろそろ寝ようじゃないか。矢代も、翌朝まで眠ったと書いているからね」     3  朝になって、十津川は亀井に起こされた。 「そろそろ新潟に着きます」  と亀井が小声でいった。 「わかった。起きるよ」  と十津川はいった。  矢代の原稿では、「眼がさめた時、列車は新潟駅に停っている」とあったからである。  腕時計を見ると午前五時二分だった。五時間足らずしか寝なかったのだが、別に眠いとは感じなかった。  十津川は身支度をし、洗面所で顔を洗った。  五時〇七分に新潟駅に着いた。  矢代の原稿では、十二月だったこともあって、「まだ外は暗く、ホームには明りがついていた」となっていたが、今は六月だから、もちろん外は明るかった。  ここは二十三分停車である。  矢代がそうしたように、十津川と亀井もホームに降りてみた。  二人の吐く息も、白くはならない。むしろ気持のいい涼しさだった。  矢代の原稿と同じだったのは、カメラを持った子供たちが、この新潟で牽引する機関車を、ぱちぱち撮っていることだった。  中には、電気機関車が切り離されたり連結される時の音を、録音している子供もいる。  ここから先は、列車の向きが逆になる。それも十二月十四日と同じだった。 「あの原稿の通りですね」  亀井はがっかりしたような顔で、十津川にいった。 「矢代はノンフィクションの作家だったんだ。嘘は書かないよ」  と十津川がいった。 「それはそうかも知れませんが──」  亀井はまだ残念そうな顔をしている。  二人はホームのベンチに腰を下した。 「カメさんはこう考えているんじゃないの。この矢代の原稿は、彼を殺した犯人が柳田のアリバイを消すために、書き直してしまったんじゃないかと」  十津川がいうと亀井は、 「警部も同じように考えられているんじゃありませんか?」 「そうであってくれれば、柳田は無実だがね。それには疑問点が二つあるよ」 「どんなことですか?」 「柳田のアリバイを消すために、真犯人がいて原稿を書き直したとしよう。犯人はなぜ中途半端な直し方をしたんだろう? 柳田のことを一行も書かない方がよかったんじゃないかね?」 「そこが犯人の芸の細かいところだと、私は考えているんですが」 「なるほどね。もう一つは、カメさんのいう通りとしてだよ、それを証明することは出来るかね。当の矢代は死んでしまっているし、十二月十四日のことを覚えている車掌もいないんだ」 「そうなんですよ。それが一番難しいと思っているんです」  亀井は正直にいった。  二十三分間の停車時間が過ぎて、ベルが鳴った。  写真を撮っていた子供たちも、あわてて列車に乗り込んだ。  矢代の原稿では、十二月十四日の子供たちは、新潟から高崎に引き返して学校に行ったとなっているが、今日の子供たちの行動が違うからといって、嘘が書いてあったとはいえない。  子供たちは、今日の「天の川」が今日きりのものだから、学校を休んででも終着の秋田まで行く気なのかも知れないからである。  それに、今日の子供たちは上野から乗って来ている。新潟で降りて新幹線で引き返しても、学校には間に合わないだろう。  列車は新発田、中条、坂町と停車して行く。  窓の外は、明るい太陽が顔をのぞかせている。青葉が眼にしみるようだった。  思い出の「天の川」は、日本海沿いに走り続ける。  午前七時を過ぎた頃、車内放送が、間もなく寝台の解体作業を始めると告げた。  七時三一分にあつみ温泉駅に着くと、作業員が四人、乗り込んで来た。  乗客は全員がすでに起きていて、カメラを持っている人たちは、一斉にその作業員たちを撮り始めた。思い出列車では、作業員たちも絶好の被写体になるということなのだろう。  20系以外の寝台列車では、寝台の解体もセットも、ボタン一つで出来るようになっているから、作業員の必要もなく、車掌が手分けしてやっている。だから四人の作業員も、今日のために特別に頼んだということだった。  十津川と亀井は、デッキで解体作業が終るのを待った。  その間も列車は日本海沿いに走り続けている。  小さなトンネルをいくつもくぐる。日本海が、その度に見えかくれする。  八時〇〇分、鶴岡に着いた。  矢代の乗った「天の川」では、ここでかなりの乗客が降りたとなっているが、今日はほとんど降りなかった。  乗客の大部分が列車マニアなので、終着の秋田まで行くらしい。  駅弁の車内販売が開始された。  乗客の手が伸びる。  十津川と亀井も矢代にならって、それぞれ二つずつ駅弁を買った。幕の内と鳥海釜めしを一つずつである。  鳥海釜めしは、矢代の原稿にあったようにきれいな彩りで、見ているだけでも楽しかった。  味もいい。 「駅弁についても、矢代は嘘を書いていませんでしたね」  と亀井は、箸《はし》を動かしながら十津川にいった。  亀井も十津川も、駅弁のファンである。  捜査本部での徹夜が続いた時など、近くのスーパーで駅弁大会があると、沢山買い込んで来て、それを夜食にしたりもする。  駅弁を二つ食べると、十津川は満足して窓の外に眼をやった。  日本海が明るく広がっている。冬の日本海は鉛色で寒々としているが、これから夏にかけては、明るく青い海になる。  列車は余目《あまるめ》に着いた。  八時三一分、酒田着。  ここでも乗客は殆ど降りなかった。  酒田を出ると、十津川と亀井はデッキに出て、進行方向に向って右側に注目した。  矢代の原稿にあった通り、優美な鳥海山が見えて来た。  矢代の原稿はここまで、事実を書いて来ている。  小さな駅をいくつか過ぎ、問題の羽後本荘に九時五〇分に着いた。  定刻ぴったりである。 「ここですね」  と亀井は、出口から身体を乗り出すようにして、ホームを見渡した。  一分停車だからホームに降りている余裕はない。ホームは二本。隣りのホームは、ここから羽後矢島へ行く矢島線である。  九時五一分、羽後本荘発車。次が終着の秋田である。  ここまでのところ、思い出の「天の川」に乗って何の収穫もなかった。矢代が書いたことを、ただ追認しているに過ぎない。  十津川は奇妙な気分になっていた。  矢代は殺されてしまっている。死者に対する礼儀からいえば、彼の書いた原稿が、正確で間違いのないものであって欲しい気がするのだが、それでは十津川たちの捜査が、完全なデッド・ロックに乗りあげてしまうだろう。  だから事件解決のためには、矢代の原稿にどこか間違いが見つかればいいのだが。  水田はすでに田植えが終り、緑色のじゅうたんのように広がって見える。  列車は長い鉄橋を渡った。雄物川にかかる鉄橋である。  家並みが見え、秋田の街が近づいてくるのがわかった。  終着の秋田駅に着いたのは一〇時三〇分である。  ホームには「歓迎 思い出列車・天の川」と書かれたアーチが立ち、駅長や秋田美人が迎えに出てくれていた。十二月十五日にはなかったことだろう。  乗客の代表が、木地山こけしを贈られた。  その間も、子供たちはカメラを持って、ホームや自分たちが乗って来た「天の川」の写真を撮っている。せっかく乗って来たのだから、一枚でも多く写真を撮りたいのだろう。  中には、帰りの(上りの)思い出列車「天の川」の切符ももう買ってある、という子供もいた。  歓迎式が終ってから、十津川もカメラを取り出して、「天の川」の写真を撮ることにした。矢代も原稿の中で、秋田のホームを歩いて、改めて「天の川」の車体を眺めたと書いていたからである。  十津川と亀井は最後尾に廻っていた。矢代も後姿を眺めたと書いていたし、十津川もブルートレインは前方からより、赤い尾灯のついている最後尾の方が好きだったからである。  十津川は二、三枚、写真を撮ったが、そのうちに眉をひそめて難しい顔になった。 「変だよ、カメさん」     4 「どこが変なんですか?」  亀井が十津川と並んで、「天の川」を見た。 「最後尾の形さ」 「なかなか美しいじゃありませんか。屋根が円いカーブを描いていて、青い車体に白い線が二本、いや三本入っていますね。それに中央のドアの両側に、『急行』と『EXPRESS』の文字が入っていますね。優雅でいいですよ」 「違うと思わないか?」 「何とですか?」 「矢代の原稿とだよ」  十津川はショルダーバッグの中から原稿を取り出した。  矢代は秋田に着いたあと、次のように書いていた。 〈好きな後姿を廻って、もう一度眺めた。  貫通式のドアのない、ふくらみを持ったバックはやはり夜行列車のクィーンにふさわしいと思う。ただ一つ不満をいわせて貰えば、中央のテールマークに「天の川」の文字が入っていないことである。  同じ20系客車を使っている寝台急行「銀河」には、絵入りのテールマークがちゃんとついている。  来年の三月十四日に消えてしまう「天の川」である。ご苦労様という意味でも、きれいなテールマークを付けて走らせてやりたいものだと思う〉 「どうだい、カメさん。違うだろう?」  十津川はじっと「天の川」のテールを見つめて、亀井にいった。 「そういえば違いますね。矢代の原稿では、貫通式のドアではないとありますが、眼の前のテールには貫通式のドアがついていますね、白っぽいドアだから、はっきりわかりますよ」 「それに、矢代は、テールマークのことを書いている。テールマークのところに『銀河』みたいに、絵と字を書いた方がいいとね。だがあそこにある車両には、テールマークなんかついてないんだ」 「寝台急行『銀河』のことはよく覚えています。あの列車の乗客が殺された事件で、警部と一緒に乗りましたからね。最後尾の形も覚えています。確か、テールマークもありましたよ」  亀井は手帳を取り出すと、ボールペンで簡単な図を描いた。 「こんな感じだったと思うんですが」 「そうだ、その形だ。矢代の原稿では、明らかにその形のテールエンドをいっているんだ。その『銀河』とあるところに、何の絵も字もないのが不満だと書いているんだ」 「しかし、今、眼の前にあるテールエンドは、全然、違いますね」 「ちょっと待ってくれよ」と十津川はいった。 「矢代は上野駅でも、この列車を最後尾から見て書いているんだ」  十津川は原稿のページを繰って、その場所を読んでみた。 〈私は、夜行列車は前方から見るよりも、後方から見る方が好きである。(中略) 「天の川」のテールは、他のブルートレインと違って貫通式の車両ではないので、すっきりしている。  三つある窓のうち、中央の大きな窓が印象的だし、ゆるい曲線のふくらみを持っているのも素敵だ〉 「上野駅では、この文章をおかしいと思わなかったんだ。あのホームでも私は『天の川』のテールエンドを見た筈なんだがね」  十津川がいうと亀井も、 「そうです。私も別に疑問を感じませんでした。ということは、上野駅ではテールエンドは原稿の通りになっていたからじゃありませんか」 「そうだ、思い出したよ。『銀河』と同じテールエンドで、銀河と書かれているプレートのところが白くなっていたんだ。だから別におかしいとは思わなかったんだよ」 「それなのになぜ、秋田に着くと形が違っていたんでしょうか? 去年の十二月十四日とは、今日は列車の編成が違うんですかね?」 「いや、全く同じ編成で走らせるといっていたよ」  十津川は2号車のところまで戻ると、顔見知りになった山下車掌長に、 「ちょっとお聞きしたいんですが」  と声をかけた。 「どんなことですか?」  山下車掌長はわざわざホームヘ降りて来てくれた。  十津川は彼をホームの端まで連れて行った。 「あのテールエンドの形ですが、上野駅で見た時と変っていますね」  十津川がいうと、山下車掌長は生まじめに、 「ええ、変っています」 「なぜですか?」 「新潟で方向転換したからですよ。先頭と最後尾が逆になったから、当然、テールの車両の形も変ります」 「しかし、客車はだいたい同じ形をしているんじゃありませんか。それなら、先頭が最後尾になっても、テールエンドはほぼ同じ形だと思うんですが」  十津川がいうと山下車掌長は微笑して、 「客車ならそうです」 「客車なら──?」 「この『天の川』の編成を考えてみて下さい」  と山下はいい、十津川の差し出した手帳に、ボールペンで簡単な編成図を書いてくれた。 「4号車と5号車は連結しないことがありますが、これは関係ありません。問題は電源車が一両連結されているということです」  と山下車掌長は説明してくれた。 「上野を出る時は、この電源車が最後尾になります。『銀河』にも連結されている、カヤ21と呼ばれる電源車です。電源車ですから、貫通式のドアはついていません。新潟では、今度は牽引する電気機関車を逆に、電源車の前に連結します。そうなると、今度はナハネフ23というB寝台客車が、最後尾になるわけです。こちらは客車ですから、他の客車と連結した時、通り抜けられなくてはいけませんから、貫通式のドアがつくことになります。最後尾が電源車から客車に変ったんですから、当然、テールエンドの形も変りますよ」  また、20系は電源車を必要とするが、新しい客車は電源を分散して、各客車の床下に取りつけているので、独立した電源車を連結する必要はなくなっているとも、教えてくれた。     5  十津川は興奮を抑えかねていた。 「カメさん、すぐ東京へ戻ろう」  と十津川はいった。 「どうやって帰りますか?」 「一番早い方法で帰りたいね」 「それなら飛行機ですね」  亀井はホームのキオスクで時刻表を買って来た。 「一番早いのは一三時二五分秋田発の全日空で、これに乗れば、一時間と少しで羽田に着きます」 「それにしよう」  と十津川はいった。  二人は改札口を出ると、空港行のバスが来るのを待って乗り込んだ。 「矢代が原稿に嘘を書いたんでしょうか?」  バスの中で亀井が小声できいた。 「いや、彼は見たことを書くことを信条にしていた男だよ」  十津川はきっぱりといった。 「では、他の誰かが矢代の原稿を書き換えたということですか?」 「そうさ。ワープロだから筆跡がわからない。それをいいことにして、誰かが自分に都合のいいように書き直したんだ。ただ、そいつは書き過ぎたんだ。そしてミスをしたのさ」 「秋田駅で、実際に『天の川』のテールエンドを見ずに書いたわけですか?」 「なぜそう書いたのか、東京に戻って調べたいんだよ」  と十津川はいった。  十二時少し前に、秋田空港に着いた。  秋田市の南東の内陸部に造られた、二五〇〇メートル滑走路を持つ、地方空港としては理想的な空港である。  東北地方最大の広さも持っている。  十津川たちはまず一三時二五分の羽田行の切符を買ってから、ターミナルビル二階のレストランで軽い昼食をとった。  二人ともまだ興奮が続いていた。 「東京に戻ったら、まっさきに何をされますか?」  と亀井がきいた。 「神奈川県警の青木警部に、柳田は犯人じゃないと連絡されますか?」 「いや、まだ違うという証拠はないんだ。矢代の原稿が間違っていたというだけでは、神奈川県警は首をタテに振らないだろう」  十津川は慎重にいった。 「じゃあ、どうしますか?」 「まず写真を見たいね」 「写真といいますと?」 「もちろん、矢代が去年の十二月十四日から十五日にかけて撮った『天の川』の写真だよ」 「その写真も、インチキだと思われるんですか?」 「いや、写真は矢代が撮ったんだと思うよ。だが、原稿は矢代以外の人間が書いたんだ。そして、その人間は最後で間違った。なぜ間違ったか、その理由が写真でわかるかも知れない。それに加藤由紀のことがある。意識が戻れば、何かわかるんじゃないかと思っているんだがね」 「ちょっと電話してみます」  亀井はすぐ立ち上ると、東京に電話を掛けに行った。  二、三分して戻って来ると、十津川に向って微笑した。 「病院の話では、やっと彼女の意識が戻ったそうです」 「そうか、そりゃあ良かった」 「ただ、一時的な気憶喪失になっていて、自分がはねられた時のことは全く覚えていないそうです」 「矢代と一緒に『天の川』に乗った時のことは、覚えているのかな?」 「それは質問していないので、わからないそうです」 「早く会って質問してみたいね」  と十津川はいった。  十津川たちが乗ったのは、ボーイング737型機である。  羽田に着くと、十津川は亀井を加藤由紀の入院している病院にやり、自分はK出版社に行って編集の岩間に会った。 「矢代さんの原稿はどうなっています?」  と十津川がきくと、 「今、ゲラにして校正中です。それがどうかしましたか?」  岩間がきき返した。  十津川は迷った。その原稿の最後の部分が間違っているといいたかったが、まだ証明はされていないし、犯人に聞こえるのが怖かった。  柳田が犯人でなければ、真犯人は自由に動き廻っていることになる。  その人間は、矢代の原稿を直すために彼を殺したと考えられる。とすると、その原稿の直しを間違えたと知れば、何をするかわからない。 「いや、早く本になったのを見たいと思いましてね。先日、渡した写真を見せて貰えませんか。実は、国鉄がやった『思い出列車・天の川』というのに乗って来ましてね。私も何枚か写真を撮って来たので、比べてみたいんです」 「それなら、どうぞ」  岩間は写真を持って来て、十津川の前に置いた。  十津川はその写真を机の上に並べていった。  岩間が横から、 「その中から二、三枚を、本にも使おうと思っているんです」 「──」  十津川は黙って並べ終った写真を見ていった。  上野駅で撮った写真から順番に並べてある。  最終は秋田の街の景色だ。  十津川はその中から、「天の川」の最後尾が写っている写真を抜き出してみた。  いずれも上野駅で撮ったもので、二枚あった。  もちろん貫通式のドアはない。  新潟駅以後で、「天の川」の最後尾の写真は撮っていなかった。  新潟駅で機関車の交換が行われたが、矢代が撮っているのは、ホームを走り廻る子供たちの方だった。矢代には彼らの方が興味があったのだろう。  終着の秋田駅で、矢代は正面から「天の川」を撮ってはいたが、最後尾からは撮っていない。多分、上野駅で撮ったから、もう必要ないと思ったのだろう。 「何かわかりましたか?」  岩間がきいた。 「わかりました。ありがとう」 「それは良かった。といいたいんですが、僕は十津川さんが、いったい何を調べているかわからないんですがね。よかったら教えてくれませんか」 「岩間さんは『天の川』に乗ったことは?」 「ありませんが」 「そうですか。ああ、本に挿入するのなら、この最後尾の写真は、どうしても一枚入れておいた方がいいと思いますよ」  と十津川はいった。     6  十津川はその足で、加藤由紀の入院している病院に廻り、亀井と会った。 「どうだった? カメさん」  と十津川は、待合室で亀井にきいた。 「医師のいう通り、はねられた瞬間のことは覚えていないそうです。しかしその他のことは、しっかり覚えていてくれましたよ」 「柳田のことは?」 「問題はそれなんですが、彼女は死んだ矢代からあとになって、『天の川』の車内で昔の友人に会ったと聞いたが、その友人の名前は聞いていないというんです」 「上野で会ったかどうかについては?」 「それも聞いていないといっていました。ですから彼女の証言では、柳田が『天の川』に乗っていたことは証明できますが、どこから乗ったかは証明できません。つまり無実の証明にはなりません」 「秋田についてからのことはどうだね? 私は一番そこが知りたいんだが」 「その点も彼女に聞いてみました。矢代と彼女は、終着の秋田駅に着くとホームに降り、駅の写真を何枚か撮った。そのあと、自分たちの乗って来た『天の川』を一枚撮った」 「後から?」 「いえ、機関車の方からだそうです。それから秋田の街に出て、街の写真を撮ったといっています」 「それでいいんだ」 「真犯人は矢代の撮った写真を見て、彼の原稿を自分に都合のいいように直したんですね」 「つまり、柳田のアリバイがなくなるようにさ」 「そうですね」 「最初から、真犯人の身になって考えてみようじゃないか」  十津川は亀井を促して病院を出ると、ゆっくり並んで歩きながら自分の推理を話した。 「真犯人は、どうしても横浜のホステス、長井みどりを殺さなければならなかった。しかし、殺せば自分が疑われる。被害者とは、そういう関係だったんだと思うね」 「つまり、あの三人の中の一人だということですね」 「そうだよ。だから殺すのはいいが、いざという時、犯人を作っておかなければならなかった。それで狙われたのが、柳田というわけだ。柳田を入れて四人が、被害者長井みどりと関係があった。一番動機の強いのが柳田だった。だから柳田にアリバイがなければ、一番いいわけだよ」 「それで十二月十四日の夜、真犯人は彼女を殺すことにしたんですね?」 「恐らく真犯人は、柳田が秋田の親戚の葬式に出るため、十二月十四日夜の『天の川』に乗るのを知っていたんだ。柳田がクラブ『秋』で、ホステスに話したんじゃないかと思う。男というのは、ああいう店では口が軽くなるものだからね。ホステスに、例えば十五日に来てよとでもいわれると、十四日の夜から『天の川』で秋田に行くから駄目だ、とでもいったんじゃないかな。それを真犯人が聞いていたんだ」 「私にもそんなことがありましたよ」  亀井がいった。 「ほう。カメさんにもそんな経験があるのかね?」 「いえ、高級クラブなんかじゃありません。私の家の近くの小さな飲み屋ですが、月に二、三回は行きます。そこのママさんが、誕生日が七月十六日で、その日にかならず来てよといわれるんですが、たいてい事件に追われて行けなくなってしまうんです」  亀井が笑いながらいった。 「柳田の場合も、そんなことだったかも知れないね。十二月十五日がホステスの誕生日ででもあったんだろう。ひょっとすると、殺された長井みどりの誕生日かも知れないね。とにかく真犯人は、柳田が十二月十四日の夜の『天の川』に乗って秋田へ行くことを知ったんだ」  十津川は断定的にいった。  今の段階では、決めつけて推理した方が、前に進むことが出来る。 「真犯人はそこで、時刻表で『天の川』を調べたんだと思うね。すると、夜の一〇時三七分上野発とわかった。絶好だと思ったに違いない。なぜなら、こんな遅くに発車する夜行列車なら、寝台は最初からセットされている。乗客だって、乗ったらすぐベッドに入ってしまうに違いない。そうなら、柳田が乗っていたことを、あとになってから証明するのは難しい。真犯人はそう考えたんだ。それで十四日の夜に殺すことにしたんだと思うね。店の看板間際に長井みどりを電話で呼び出して殺し、死体を金沢八景の造成地へ運んで埋めた。彼女の死体が発見されず、行方不明になってしまえば、それはそれでいいと思ったんだろう」 「すると、次の日からそこに家が建ち始めたのは、真犯人の計算外だったんでしょうか?」 「それはわからないね」  と十津川はいった。  二人は近くにあった喫茶店に入った。  コーヒーを注文してから、また推理の続きになった。 「造成地には家が建ってしまい、理めた死体はかくされてしまった。真犯人の思惑どおりだったかどうかはわからないにしろ、ほっとしていたろうと思うね」  十津川はコーヒーを一口飲んだ。 「今年になって急に白骨死体で発見されたわけですね」 「そうだ。なかなか死体の身元が割れなかったが、真犯人はもちろん、それが長井みどりだと知っている。ただ少し心配だったと思うね。上手《うま》く警察が、柳田を犯人と断定してくれるかどうかわからないからだ。そのうちに、白骨死体が長井みどりだとわかってきた。殺されたのが十二月十四日の深夜らしいとなってきた。警察は当然、柳田たちの身辺を調べ始めた。もちろんすぐには逮捕できないから、呼び出しては事情をきいていた。そんなとき、柳田を入れて四人の間で話が交されたんじゃないかと思うね。同病相哀れむというやつだ」 「お互いに大丈夫かといって話し合うというのは、よくありますね」 「その時に、柳田は、十二月十四日の夜、『天の川』に乗ったこと、その車内で旧友の矢代に会ったことを思い出したんじゃないかな。矢代が『天の川』の同乗記を本にする。『その中で、お前に六年ぶりに再会したことも書くよ』といっていたのかも知れない。柳田はそのことを、三人に話したんじゃないだろうか。これでアリバイが成立したと思い、嬉しくなって友人に話すことはよくあるからね。その友人たちの中に真犯人がいるとも知らずにだ」 「真犯人は、それで矢代を殺す必要に迫られたわけですね」 「柳田は、また警察に呼ばれれば、必ず『天の川』のこと、車中で矢代に会ったことを話すだろう。矢代が出て来て証言すれば、柳田はアリバイが成立してしまう。そうなると、今度は自分が一番の容疑者になってしまう。そこで矢代を毒殺したんだ」 「殺したあとマンションのキーを盗み、部屋に忍び込んで、ワープロで書いた原稿を持ち去ったというわけですね」 「その時、矢代の撮った写真も一緒に持って行ったんだと、私は思うね。その写真の中に柳田が写っていれば、矢代が死んでも、それがアリバイになってしまうからだ。真犯人は自宅に戻り、原稿と写真に眼を通した。写真には柳田は写っていなかった。だが原稿の方には、柳田と六年ぶりに再会したことが、はっきり書いてあった。それも、上野を出てすぐ柳田に会ったと書いてあったに違いない。そうでなければ書き直す必要はないからね」 「一つ、質問があるんですが」 「何だい? カメさん」 「警部も前にいわれましたが、もし真犯人が書き直したのなら、なぜ柳田のことを、全て削除してしまわなかったのかという疑問なんですが」 「カメさんのいう通り、私も前はそれが疑問だった。だから、あの原稿は矢代が書いたものと、断定していたんだよ」 「それならなぜ真犯人は羽後本荘を過ぎたところで柳田に会ったと、中途半端な直し方をしたんでしょうか?」 「理由は三つ考えられるね」  と十津川はいった。     7 「一つはこうだ。矢代は車中で柳田に会ったことを、誰かに喋っている可能性がある。とすると、全く削ってしまうと、逆におかしいと警察が思うのではないか。真犯人がそう考えたのではないかということだよ」 「なるほど」 「第二は、私はこれが最大の理由だと思うんだがね、柳田のことを全く書かないとする。確かに、そうしておけば、柳田が十二月十四日に『天の川』に乗ったという証拠はなくなる。しかし、乗らなかったという証拠にもならないんだ。矢代は『天の川』への同乗記を頼まれ、原稿を書いた。しかし、潔癖な性格で、車中で旧友に再会したが、それは私事なので書かなかったかも知れないからだよ。真犯人は、それでは困るんだ。自分も、長井みどり殺しの疑いがかかる立場にいるわけだからね。出来れば、柳田を犯人にしてしまいたい。そう思い、真犯人が考えたことは、羽後本荘を過ぎてから、矢代が柳田に会ったことにしたんだと思う。こうすれば間違いなく、柳田が犯人にされると考えたんだ」 「第三はどんなことですか?」 「これは第二の理由ともつながってくるんだが、もし柳田が、羽後本荘で『天の川』に乗ったとすると、一見、アリバイになりそうだが、十四日の深夜に横浜で長井みどりを殺し、翌朝、飛行機で羽田から秋田へ飛ぶ。そうすれば羽後本荘で、ゆうゆう『天の川』に乗り込める。多分、警察もそれに気付くだろう。最初からアリバイがないのより、アリバイが成立したあとでそのアリバイトリックが解明されると、警察は絶対に犯人だと思い込む。真犯人はそう考え、自分の考えに酔ってしまったのではないかということだよ。これが第三の理由だ」 「これで決りですね」  亀井が嬉しそうにいった。 「まだ誰が真犯人かわかっていないよ」  十津川が慎重にいうと、亀井は、 「確かにそうですが、これで神奈川県警も、柳田犯人説を撤回してくれるんじゃないですか? 問題の矢代の原稿が、矢代本人の書いたものと違っていることがわかったんですから」  と楽観的ないい方をした。 「いや、そこまでは期待できないね」 「なぜですか?」 「神奈川県警はもう、柳田を検察に送ってしまったんだ。簡単に柳田犯人説を引っ込めやしないと思うね。それに、私の推理もまだ完全じゃないんだ」 「私には完璧に見えますが」 「いや、まだ疑問はいくつか残っている」  と十津川はいった。  謙遜でいっているのではなかった。  解決しなければならないことは、まだいくつもあった。  例えばその一つとして、矢代がジョギング中に死亡したということがある。  犯人は矢代がジョギングすることを知っており、しかも毒入りのオレンジジュースを用意していた。  犯人と矢代が初対面だったら、いきなり出されたジュースを飲むだろうか?  十中八九、飲まないだろう。十津川が矢代であっても、初めて会った人にいきなりジュースをすすめられたら、断ると思う。  相手が柳田なら、話は別だ。大学の同窓だし、去年の十二月十四日発の「天の川」の車中で、六年ぶりに再会しているのだから、喜んで飲むだろう。  彼が犯人でなく、他の三人の中に真犯人がいるとすれば、その真犯人がどうやってジョギング中の矢代に、毒入りのジュースを飲ませることが出来るか、その解明も必要になるだろう。  十津川と亀井は捜査本部に帰ると、本部長の署長と本多捜査一課長に、結果を報告した。 「従って柳田は、犯人ではないと思うのです。長井みどりを横浜で殺し、次に柳田を犯人に仕立てるために東京で矢代を殺したのは、柳田ではなく他の人間です。これは間違いありません」  と十津川は結論した。 「神奈川県警には連絡したのかね?」  本部長がきいた。 「いえまだです。向うさんを納得させるだけの証拠が揃っていません」 「しかし神奈川県警は、柳田を検察に渡してしまっているんだ。まごまごしていると裁判になってしまう。そうなるといよいよ難しくなってくるぞ」 「それはそうですが──」 「私が神奈川県警に話してみよう。私も、君の推理は当っていると思うからね」  と本部長はいった。  本部長がどんなふうに説明したのか、十津川は知らなかった。  十津川が想像したのは、向うの実質的な担当者は青木警部で、彼は多少のことでは自説を曲げないだろうということだった。  三日後、十津川が本部長に呼ばれ、署長室に入って行くと、 「向うも頑固だねえ」  と本部長は肩をすぼめるようにした。 「やはり、柳田の釈放には同意しませんか?」 「逆に、質問状を送って来たよ」  本部長は封筒を十津川に渡した。  神奈川県警本部の文字が入った封筒である。  一、横浜における殺人事件と東京における殺人事件が、同一犯人によるものだという明確な証拠はあるのか。  二、秋田駅で見た「天の川」のテールエンドの形が、原稿と違っているというだけで、矢代の原稿が、犯人によって書き直されたものだと断定できるのか。  三、柳田が、十二月十五日朝の飛行機で秋田に行かなかったという証拠はあるのか。  四、柳田が犯人でないとしたら、いったい誰が犯人なのか。  五、もし犯人が別にいるとすれば、その犯人は矢代をも殺したことになるが、どうやってジョギング中の矢代に、毒入りのジュースを飲ますことが出来たのか。むしろ、旧友である柳田なら簡単だったのではないか。  六、もし柳田が犯人でないのなら、なぜ彼は自供したのか。当方は、拷問も誘導訊問も行ってはいない。  以上の疑問に明確な答が出ない限り、当方としては、柳田犯人説を捨てることは出来ない。  第五章 タイムリミット     1  十津川はその文書を、亀井にも見せた。 「これは恐らく、あの青木警部が作成したものじゃありませんか」  と亀井は、眼を通してから十津川にいった。 「そうだろうね」  十津川も肯いた。 「警部は予想されていましたか?」 「まあね。このうちのいくつかは、私自身も疑問だったんだ」  と十津川はいった。 「これをどうしますか?」 「全てに明確な答が出ない限り、柳田が犯人だといっている」 「一つ一つ答を見つけていきますか?」 「そうするより仕方がないが、この全てに答を出すのは難しいよ。例えば、柳田が十二月十五日の朝七時三〇分の秋田行の全日空機に乗らなかったことの証明だって、簡単には出来ない」 「県警は、この便の乗客の中に偽名の男の乗客が二人いた、その一人が柳田に違いないといっていますね」 「そうだよ。国内線では偽名を使っても乗れるから、一機の中に一名か二名は偽名の乗客がいるものさ。ホテルの宿泊カードにだって偽名を書く客が多い。この飛行機にだって、たまたま二名、そんなヘソ曲りがいたんだと思う。しかしこの二人が、どちらも柳田ではないことを証明するのは難しいよ。住所が書いてあったとしても、でたらめに決っているし、去年のことだから、スチュワーデスの記憶だっておぼろげになっているからね」 「しかし、こつこつやっていけば──」 「タイムミリットもある」 「といいますと?」 「すでに柳田は、殺人で起訴されている。公判が始まってしまえば、神奈川県警の意地に検察の面子《メンツ》が加わってくる。容易なことでは、他に真犯人がいることは納得させられないよ」 「タイムリミットはいつですか?」 「少くともあと二週間以内に、この質問へ明確な答を出さなければならない。二週間以内なら、それほど相手の面子を傷つけずに、柳田を釈放させることが可能かも知れない。公判が始まってしまえば、マスコミも問題にするだろうからね」 「二週間ですか」 「大変だよ」 「たいして時間がありませんね」 「一番、問題なのは、神奈川県警の協力は絶対に得られないだろうということだ。それに、柳田に会って彼の話を聞くことも、まず出来ないと覚悟しておいた方がいい」 「それじゃあ、片手を縛られて戦うようなものじゃありませんか」 「しかし、眼はふさがれていないから、事実を見つけることは出来るさ。だからあと二週間、精一杯、眼を見開いて、全力をつくしてみようじゃないか」 「二週間過ぎても真犯人を見つけられず、この質問に答を見つけられない時は、どうなりますか?」 「公判が始まって、多分、上の方から、この事件についての捜査は中止しろといってくるだろうね」 「それは警察の面子のためということですか?」 「そうだよ。ある男を殺人犯人として起訴して、その裁判が開かれているときに、一方で警察が、その男の無罪を証明するために動いている。そんなことが許される筈がないからね」 「そうですな」  亀井は溜息をついた。  ではどうすればいいのか。 「どこから手をつけますか?」  と亀井がきいた。 「矢代の原稿が見つかった喫茶店へ行ってみよう」 「なぜその喫茶店へ?」 「あの原稿は、真犯人が矢代のマンションから盗み出し、自分に都合のいいように直したものだった」 「そうです」 「それなら、矢代があの喫茶店に置き忘れたものじゃない。真犯人がわざと置いておいたものだということになる。真犯人は、直した原稿と写真を、矢代のマンションに戻しておくわけにはいかなかった。なぜなら、われわれがマンションを調べて、原稿や写真がないことを知っていたからだよ。それが突然、出て来たら怪しまれる。だから真犯人は、矢代がよく行く喫茶店に置いておいたんだ」 「するとあのマスターは、真犯人を見ているかも知れませんね」 「あまり期待しないで、会ってみようじゃないか」     2  十津川と亀井は、喫茶店「BMW」に行き、マスターの山川に会った。  小さいが洒落《しやれ》た店である。  早い時間に来たので、他に客はいなかった。 「先日はどうも、ありがとうございました」  と十津川は丁寧に礼をいった。 「あの原稿はお役に立ちましたか?」  山川は、カウンターの中でカップを洗いながらきいた。 「もちろん役に立ちましたよ。ところで、矢代さんが最後にこの店に見えたのは、五月の二十七日ということでしたね?」 「ええ。亡くなる前日です」 「その日は、午後八時頃に矢代さんは帰ったといいましたね?」 「ええ」 「翌日、この店は休みだった?」 「そうです」 「次の日、テーブルの下を探したら矢代さんの忘れて行った原稿が出て来た?」 「ええ」 「いつもテーブルの下を調べるんですか?」 「なぜ、そんなことを聞くんですか?」  山川はふっと不安気な表情になった。 「今、テーブルの下を見たら、週刊誌が置いてあったり古新聞が置いてあったりしますからね。毎日、調べるんだとしたら、もっと片付いているんじゃないかと思ったものですからね」 「あの時は、ちゃんとテーブルの下を見て、茶封筒に入った矢代さんの原稿と写真を見つけたんですよ」  山川はむきになって主張した。 「山川さん、あなたを非難しているわけじゃありませんよ。もし違っているのなら、正直に話して欲しいんです。ちょっとしたことが、殺人事件の解決に役立つんです。それに、矢代さんはどうも、あの原稿のことで殺されたと思われるのですよ」  十津川がいうと、山川はさすがに、 「本当ですか?」 「間違いないと思っています。どうですか、ひょっとして誰かが、ここに封筒があるぞといって、あなたに渡したんじゃありませんか?」 「そうじゃないんですが、実は電話があったんです」 「電話?」 「そうなんです。二十九日の午後です。二時頃だったと思います。男の声で電話があって、あんたの店の窓際のテーブルの下に、大きな封筒が置いてあった。マスターのあなたに渡そうと思っていて、忘れてしまった。気になったので電話したというんです」 「それで調べたら、見つかったというわけですか」 「そうです」 「なぜ警察に届けて下さった時、電話のことを話して下さらなかったんですか?」 「その電話の方が、会社をサボってコーヒーを飲みに行っていたので、黙っていてくれといわれたものですから」 「サボってね。とすると、二十八日は店が休みだったわけだから、二十九日にその男は、コーヒーを飲みに来たことになりますね?」 「ええ」 「午後二時に電話があったとすると、彼はその前に店に来たことになりますね?」 「ええ」 「この店が開くのは何時ですか?」 「午前十時です」 「すると十時から午後二時までの間に、彼は来たことになる。あの原稿があったテーブルに、その時間にどんな客が座っていたか、覚えていませんか?」  十津川がきいた。  亀井もじっと山川の顔を見つめた。  山川は当惑した顔になって、 「私もいろいろ考えてみたんです。二十九日の二時までに、どんなお客が来ていたかなと思いましてね」 「それで?」 「うちは夕方からが混むんです。昼間はあまりお客はありません。昼休みの時間は、この近くの会社や商店のOLなんかがお茶を飲みに来ますが、みんな顔見知りですからね。それに昼休みに見えたのなら、別に内緒ということもないでしょうしね。いくら思い出してみても、見知らぬ顔のお客がいらっしゃっていたという記憶はないんです」 「二十八日の休みの日ですが、マスターはここに泊っているんですか?」 「いえ。家は三百メートルほど先のマンションです。ここは店だけです」 「ここの防犯設備は?」  十津川がきくと、山川は笑って、 「鍵をかけておくだけですよ。売上げ金は毎日、マンションに持って帰りますし、泥棒が盗《と》って行きそうなものもありませんからね。壁の絵だって私が描いたもので、盗んだって売れやしません」 「泥棒が入ったことは?」 「まだありませんよ」 「二十八日の夜、入ったんですよ」 「しかし、何もなくなっていませんでしたよ。コーヒーカップも皿も、一枚もなくなっていませんがね。何か盗まれたんだろうか?」 「その泥棒は、多分、深夜に忍び込み、テーブルの下に原稿や写真の入った茶封筒を置き、翌日の午後二時にあなたに電話したんだと思いますね」 「何も盗らずに、あの封筒を置いていったというんですか? 変な泥棒ですが、なぜそんなことを──?」 「あなたに、あの封筒を警察に届けて貰いたかったからでしょうね。恐らくその男が、矢代さんを殺した犯人です」 「あの電話の男がですか──」  山川は信じられないというように首を振った。 「まず間違いありませんよ」 「私は親切な人だと思ったんですがねえ」 「声で何か、覚えていることはありませんか? 甲高いとか、太く低い声だとか」 「普通の声でしたよ。三十代だと思いますが、わかりません」 「人の出入りはどこから?」 「表のドアと裏口です」 「ちょっと見せて下さい」  十津川は亀井と、まず入口のドアを調べ、裏口を調べた。  表のドアは一応、新しいしっかりした鍵がついていたが、裏口の方は薄い木製のドアで、鍵も古いものだった。鍵全体をドアに取りつけているネジも、四本のうち一本が抜けていた。 「ここから入ったんだと思いますね。ドライバーを持ってくれば、あと三本のネジを外して、鍵全体を取り外せますよ」  亀井が呆れたようにいった。  二十八日の夜、忍びこんで、書き直した原稿を犯人がテーブルの下に置いたことは、まず間違いなさそうである。     3  二人は、「BMW」を出た。 「なかなか収穫があったじゃないか」  十津川は満足気な表情だった。亀井は首をかしげて、 「私にはそうは思えませんが」 「なぜだい?」 「警部のいわれた通り、犯人は二十八日の夜、あの店に忍び込んで、テーブルの下に矢代の原稿と写真を封筒に入れて、置いておいたのだと思います。しかし、その証拠はありません。犯人の指紋でも見つかれば別ですが」 「犯人は指紋を残すようなヘマはしないさ」 「それでは別に収穫はなかったと思いますが。推理だけでは、柳田をシロといえませんから」 「犯人のことがいろいろとわかったことが、私は収穫だと思っているんだ」 「そうでしょうか?」 「犯人は、朝のジョギング中の矢代を待ち受けていて、毒入りのジュースを飲ませて殺した。犯人は、矢代がどこでジョギングするか知っていたんだ。それに犯人は、矢代に警戒されずにジュースを飲ませることが出来た。きっと初対面ではなかったんだよ」 「それはわかります」 「そして、『BMW』のことだ。矢代はあの店の常連で、よくあそこでコーヒーを飲みながら、原稿を読んだり直したりしていた。犯人はそれも知っていたことになる。つまり犯人は、矢代のことをなぜかよく知っているんだ」 「そうですね」  亀井の顔も生き生きしてきた。 「それに、少くとも二、三回は、会って話をしたことがある。それならジョギング中の矢代に、警戒されずに毒入りのジュースを飲ませることが出来たと思う」 「するとあの三人の中に、矢代のことをよく知っている人間がいたら、それが犯人ということになりますね」 「断定はできないが、その可能性が強くなって来る。まずそれを調べてみよう」  と十津川はいった。  レストランの店主、山本久栄。大会社のエリート部長の浜崎透。それに、カメラマンの白石清一。この三人の中に、矢代と親しかった男がいるのだろうか。  三人を初めに調べた時、三人とも、矢代など知らないといっていたのだが。  捜査本部に戻ると、十津川は部下の刑事たちに、もう一度、三人のことを調べさせることにした。  まず三人の出身校を調べ直した。  前には大学だけを調べたのだが、今度は小学校、中学校、高校、時には幼稚園まで調べた。  どこかで三人の誰かが、矢代と結びつくのではないかと思ったのだ。  年齢に差があるから、同窓ということはないだろうが、先輩、後輩でつながるかも知れない。  或いはその学校の伝統のあるサークルの、キャプテンと部員ということだって考えられた。  しかしそのどれにも、三人と矢代は、あてはまらなかった。 「次は仕事の面だ」  と十津川はいった。  矢代はライターである。その仕事で、三人の誰かとつながっていないだろうか?  三人の中に出版社の人間がいれば矢代と簡単に結びつくが、そういう人間はいない。  レストランの店主、エリートサラリーマン、カメラマンでは、ちょっと結びつきそうになかった。  何とか結びつく可能性があるとすれば、同じ自由業のカメラマン、白石だろう。しかしどこで結びつくのか。  十津川はK出版社に行き、岩間に会った。  岩間は矢代の事件に、相変らず興味を持っていた。 「矢代さんを殺した容疑者は、まだ見つかりませんか?」  と彼の方から十津川にきいた。 「そのことで、岩間さんのお力をお借りしたいと思いましてね」 「私の?」  と岩間は、くすぐったそうな顔になって、 「私は捜査には素人ですよ」 「矢代さんがどんな仕事をしていたか、それを教えて欲しいんですよ」 「あの人はいろいろな仕事をしていましたからね。他の社の仕事もやっていたし、彼がひとりで進めていた仕事もあったと思いますしね」 「出来れば、彼が今までにやった仕事を全て知りたいんですよ。著作物の全てです。どんな小さい仕事でも知りたいと思っています」 「しかし、それを調べてどうされるんですか?」 「打ちあけますと、犯人はどこかで、矢代さんと会っている筈なんですよ。どの程度の親しさかはわかりませんが、顔を合せればニッコリ笑う程度の関係だったと思うのです。いろいろと調べましたが、矢代さんと犯人は、どうも仕事の上で関係があった人間じゃないかと、考えられるようになったものですからね」 「つまり犯人は、矢代さんと仕事でチームを組んだことのある人間というわけですか?」 「その可能性があると思っているのです。例えば、矢代さんとカメラマンが組んで、仕事をしたようなことがあったんじゃありませんか?」 「何回かありますよ。うちの雑誌でも、前に青函連絡船の特集をやりましてね。文章は矢代さんに頼み、それに有名な写真家が撮った写真をつけました。他にもあると思いますよ」 「青函連絡船の時は、何というカメラマンと彼は組んだんですか?」 「三原健というカメラマンですが」 「白石清一というカメラマンと、矢代さんが組んだことはありませんかね?」 「その名前は聞いたことがありますよ。彼が犯人なんですか?」 「いや、単に何人もいる容疑者の中の一人にしか過ぎません。どうですか、矢代さんと白石カメラマンが組んで仕事をしたことはありませんか?」 「至急、調べましょう。それから、矢代さんが今までやった仕事のリストを作っておきます。その仕事を誰と組んだかも調べておきますよ」 「お願いします。それも、早くやって貰いたいのですよ」 「タイムリミットがあるんですか?」 「二、三日のうちに結果が欲しいのです」 「他の出版社にも協力して貰って、やってみましょう」  と岩間は約束してくれた。     4  二日後に、岩間が矢代の仕事のリストを揃えてくれた。  その間の二日間、十津川たちが手をこまねいていたわけではない。  山本久栄たち三人の身辺の捜査は続けていた。  だが、これといった収穫は得られなかった。  三人に会って、直接、矢代利明を知らないかときいてもみた。が、この質問は失敗だった。三人とも、そんな名前に記憶はないと答えたからである。  十津川の部下たちが無能だったからではない。  柳田に直接訊問できれば、何か事件解決のヒントを与えられたかもわからないが、それは許されていなかった。  山本久栄、浜崎透、白石清一の三人に対する訊問にしても、制限があった。  神奈川県警が、長井みどり殺害の犯人として柳田を逮捕し、起訴してしまっている以上、三人をその容疑で訊問は出来ないのである。  もしそれをしたら、彼らは自分たちの弁護士に話し、弁護士はマスコミに流すだろう。  そうなれば、警視庁と神奈川県警の意見の分裂が公けになってしまうし、県警の事件に、十津川たちが干渉したことになってしまうのである。  だから三人に向って、長井みどり殺しで何かを訊くことはできない。  十津川たちに出来るのは矢代殺しの件についてだけ、三人を訊問することだった。それなら神奈川県警も、文句はいわないだろうからである。  しかし三人が、矢代殺しについて直接動機を持っている筈はない。彼等の一人が長井みどりを殺し、その罪を柳田にかぶせるために矢代を殺し、加藤由紀をはねたのである。  犯人は、純粋に矢代だけを殺す動機は持っていない。だから三人とも平然としていた。  それだけに、岩間が用意してくれた資料は嬉しかった。  矢代は大学を卒業してすぐ、ライターの仕事を始めた。  以来、六年間である。  本を十八冊出していた。その中にはエベレストの登山隊に同行した時の記録もあった。  雑誌の仕事も多く、そのリストは六年間で五十八誌になっている。  岩間は単行本十八冊のうち十一冊、雑誌五十八誌のうち三十六冊を揃えてくれていた。  十津川は残りの本と雑誌のリストを新しく作り、それを日下刑事に渡した。 「国会図書館へ行けば全てあると思うから、君と西本刑事で探してくれ。出来れば借りて来て貰いたいが、それが駄目ならコピイして貰ってくれよ」  と十津川はいった。  岩間が揃えてくれた単行本と雑誌は、残りの刑事たちが調べることになった。 「警部はこの中に、白石清一の名前が出てくるのではないかと期待されているんですか?」  と亀井がきいた。 「ああ、一番可能性があるのはカメラマンだと思っているんだよ。ノンフィクションライターの矢代と一緒に仕事するというと、一流企業のエリートとか横浜のレストランの社長という線は、まずないんじゃないかと思うからね」  と十津川はいった。  十津川を含めて六人で十一冊の単行本と、三十六冊の雑誌のページをめくり始めた。  眼を通していくと、矢代が仕事の上で知り合う可能性があるのが、カメラマンだけとは限らないことがわかって来た。 〈現代味の名店案内〉  という本を、矢代が書いていた。  矢代の主観で、美味しくて安い店を探して歩くというものだった。  一冊に九十九店の名前と写真がのっていて、矢代のコメントが付けられている。  こんな本ならば、山本久栄が社長をやっているレストラン「花」がのっている可能性も出てくるのである。  だがその本には、「花」も山本久栄も出ていなかった。店構えと料理の写真を撮ったカメラマンの名前も、白石清一ではなかった。  三十分、一時間になったが、見つけたという声はあがらなかった。  眼が疲れて来た。 「ひと休みしよう」  と十津川がいって、煙草に火をつけた。 「なかなか見つからないものですな」  亀井は眼をしばたたきながら、十津川にいった。  十津川は冷たい水で顔を洗った。  若い清水刑事がコーヒーをいれてくれた。それをみんなで飲みながら、残りの本と雑誌に挑戦した。  全部の本と雑誌に眼を通した。が、カメラマン白石清一の名前も他の二名の名前も、見つからなかった。  夕方になって、国会図書館から日下と西本の二人が戻って来た。  借りた本もあったし、貸出禁止のものはコピイして持って帰った。  夕食のあとで、それを全員で調べていった。  だが見つからないのだ。  山本久栄も浜崎透も、白石清一も見つからなかった。 (どこかにある筈だ)  と十津川は思う。  あの三人の中に真犯人がいる。それは間違いないと、十津川は確信していた。  長井みどりを殺す強い動機を持った人間は、柳田とあの三人である。  柳田がシロなら、あとの三人の中に真犯人がいる。  そして真犯人は、どこかで矢代を知っていなければ、彼に毒入りのジュースを飲ませるのは不可能だったろうし、「BMW」という喫茶店に矢代がよく行っていたことも、知らない筈である。 「もう一度、調べ直してくれ」  と十津川は、部下の刑事たちにいった。 「必ずこの単行本と雑誌の中に、あの三人の中の誰かの名前が出ていなければおかしいんだ。必ずある筈だから、見つけてくれ」  二度目の読み返しが終ったのは、夜の十二時近かった。  だが見つからなかった。三人の名前はどこにものっていなかったのだ。     5 「どうもご苦労さん」  十津川は刑事たちの労をねぎらったが、ぶぜんとした顔になっていた。  岩間によれば、これで矢代の書いたものは全てだという。 「わからねえな」  と言葉までぶっきら棒になって、十津川は考え込んでしまった。  真犯人は、矢代と顔見知りだったのだ。そうでなければ、今度の事件は奇妙なものになってしまうのである。 「見つかりませんでしたが、警部の考えられたこの線は正しいと思いますよ」  亀井がなぐさめるようにいった。 「だがね、カメさん。私の推理が正しければ、この中に三人の誰かの名前が出て来なければおかしいんだよ」 「何かのパーティで一緒になって親しくなった、というのはどうですか。これなら矢代の仕事とは無関係ですよ」 「その可能性もなくはないが、犯人は朝のジョギング中に突然、出て来て、毒入りのジュースを差し出したんだ。ただパーティで知り合ったぐらいの相手から、それを貰って飲むとは、どうしても思えないんだ。何日か一緒に仕事をしたことのある人間じゃないかと思うね」  十津川はその考えに固執した。  だから、矢代がやって来た仕事の上で調べれば、三人の中の一人の名前が自然と浮び上ってくると思ったのだが、これは見込み違いだったのだろうか? 「明日、加藤由紀に聞いてきましょうか?」  と亀井がいった。 「矢代が三人の中の誰かと親しければ、彼女がその名前を、矢代から聞いているかも知れませんから」 「頼むよ」  と十津川はいった。  亀井は翌日、彼女の入院している病院へ飛んで行った。  だが亀井は電話をかけて来て、加藤由紀は、三人の名前を矢代から聞いたことはない、といったという。 「申しわけありません。ひょっとするとと思ったんですが」 「カメさんが謝ることはないさ。それより彼女は、どんな具合だね?」 「若いですからね。身体の方はどんどん回復しているようですが、精神的に立ち直る方が難しいんじゃないかと、医者はいっています。何しろ結婚寸前で、恋人が殺されてしまったんですからね」 「彼女のためにも、一刻も早く犯人を逮捕したいがねえ。車にはねられた瞬間の記憶は、まだ戻らないのか?」 「はっきりとは戻っていないようですが、電話のことをいっていましたね」 「電話?」 「なぜあの時刻にマンションを出たのか、何の用だったのかときいてみたんですが、電話があって外出したような気がするといっています。これは間違いないと思いますね」 「犯人が電話で呼び出しておいて、車で待ち構えていたんだな」 「そう思います」 「わかった。君のいう通りだと思うね。殺された矢代のことで話したいとでもいって、彼女を誘い出したんだと思うね」 「しかし、わかったのはこれだけです。あの三人と矢代との関係は、いぜんとして不明のままです」  亀井は口惜しそうにいった。  十津川は、岩間のところに借りた資料を返しに行った。 「残念ですが、この中にわれわれの期待していたものは、ありませんでした」  と十津川は岩間にいった。 「白石というカメラマンは、関係していなかったということですね?」 「他にも何人か名前があがっているんですが、いずれも矢代さんの本や雑誌の文章の中には、出て来ませんでした」 「そうですか」 「矢代さんの書いたものは、これで全部ですか?」 「彼の書いたものは、それだけですよ」  と岩間はいった。 「書いたものというと、他に彼は何かやっていたんですか?」  十津川は藁《わら》にもすがる気持できいてみた。 「この本や雑誌を十津川さんに渡したあとでわかったんですが、矢代さんはラジオの仕事をしたことがあったんですよ」 「ディスク・ジョッキーのような仕事ですか?」 「いや、中央ラジオに『成功への道』という番組がありましてね。もう終っています。一年ぐらい続いたんじゃないかな。毎週、水曜日の午後八時から、いろいろな仕事で成功した人物に、女性アナウンサーがインタビューするんですよ。矢代さんはそのシナリオを書いていたんです」 「具体的にどんなことをやっていたわけですか?」 「前もって矢代さんが、これはという人物を選んで取材しておくわけです」 「どんな人物が選ばれていたわけですか?」 「あまり有名人はやっていなかったようですね。松下幸之助とかソニーの社長というのは、他でも何度となく取りあげられていて新鮮さがないので、小さな成功者でも面白い、変りダネの人物を選んでいたようですね」 「一週に一人、一年間というと、五十人近く取りあげられているわけですね」 「そうです。四十八人だったと思いますね」 「なぜそれを、本にしなかったんですか?」 「いや、本にしようという話はあったみたいですね。S書房でね。ただ、矢代さんは面白い人物というのを主にして選んだものだから、本にしようと計画しているうちに、商売が上手《うま》くいかなくなって、夜逃げする人物も出て来たりしたらしいんです。それで、本にするのはやめたそうですよ」 「取りあげた四十八人の名前は、中央ラジオヘ行けばわかりますね?」 「と思いますよ」  と岩間はいった。  十津川はその足で、新宿西口にある中央ラジオ局へ行ってみた。  編成局で話をすると、担当者が、その時に使われた四十八冊の放送台本を持って来てくれた。  なるほど、構成、脚本のところに、矢代利明の名前が入っていた。  一昨年の十月から去年の九月まで放送されたものである。  十津川は机を一つ借り、その上に四十八冊の台本を置いて、一冊ずつ見ていった。  十津川の知らない人物を取りあげたものが、ほとんどだった。  スーパーを四店持ち、四人の妻を持つ七十歳のがんばり屋・──さんといったとらえ方に、この番組の狙いが出ているような気がした。  兄は病院経営、弟は葬儀社経営のNさん兄弟というのもある。  内容もきっと面白いのだろうが、十津川は取りあげられている人物の名前だけを見ていった。  なかなか三人の名前は出て来ない。  二十五冊目に、十津川はやっと笑顔になった。見つけたのだ。 〈横浜一のプレイボーイを自任する、レストラン経営の山本久栄さん〉 「見つけたぞ!」  と十津川は、胸の中で叫んでいた。  カメラマンの白石清一でなかったのは意外だったが、三人の中の一人が、やはり矢代と結びついていたのだ。  十津川はそのシナリオに眼を通していった。女性アナウンサーと、ゲストの山本久栄の対話の形になっている。この対話は、もちろん矢代が山本から取材して書いたものだろう。  横浜・伊勢佐木町にある山本のレストランの紹介のあとでの対談ということになっていた。 アナ「横浜のクラブやバーで、毎日のように遊んでいらっしゃると伺いましたけど」 山本「毎日はオーバーだけど、よく行きますよ。私の信条はね、人生は楽しむためにあるということなんだ。ただし、そのためにはよく働きますよ。従業員より社長の私の方が、働くんじゃないかな」 アナ「横浜一のプレイボーイを自任していらっしゃるということですけど、本当ですか?」 山本「自分でいってるわけじゃないが、友だちにそんなことをいわれたことがあるね。自分じゃ、名誉なことだと思ってるよ」 アナ「これは男の方が知りたいと思うんですが、夜の巷でもてる秘密は、何でしょうか?」 山本「そりゃあ、投資ですよ。心だなんていうけど、そりゃあ嘘だね。自慢じゃないが、私はね、今までに三億円ぐらいは、遊びに使っているんじゃないかな。今でも儲けの半分は、女のために使っているよ」 アナ「奥さんはお怒りになりません?」 山本「そこが、教育ですよ」 アナ「教育?」 山本「私はね、女遊びはするがワイフには迷惑はかけないんだ。家庭を放ったらかしにして、他の女にのめり込むのはいけないね。男としてそれじゃあ落第だ。ワイフにも十分ぜいたくはさせるし、夫としてのつとめも果たす。その上で遊んでいるんだから、ワイフだって文句はいわないさ。だから、金がない男は遊ぶなと、私はいいたいね。遊びたかったら、まず儲けるんだ」 アナ「それが山本さんの人生哲学ですか?」 山本「そうだよ」 アナ「でも、それだけおもてになると、相手の女の人が山本さんに夢中になってしまって、別れるのは嫌だといわれて、お困りになるんじゃありませんか?」 山本「女のことでごたごたするのは、金を惜しむからだよ。いざとなったらケチなことはいわずに、一千万でも二千万でも、その女に渡しちゃうんだ。五百万欲しいと思っているところに、ポンと一千万渡してみなさいよ。何かいいたいと思っていた女だって、何も文句をいわずに別れてくれるんだ。金がきれなきゃあ、遊ぶ資格はないねえ」 アナ「すると山本さんは、いつもある程度のお金を持って遊んでいらっしゃるんですか?」 山本「男はね、いつも百万ぐらいは持っていなきゃね。そうすれば気持に余裕が出来るから、気持よく遊べるんだよ」 (ここで山本、アナに財布を見せる)  十津川はシナリオを閉じると、近くにいた担当者に、 「この通りに放送されたんですか?」 「だいたいそのシナリオ通りに放送されました」 「あなたは当然、山本さんに会ったわけですね?」 「ええ。会ったし、一緒に彼の行きつけのクラブヘも行きましたよ」 「クラブ『秋』じやありませんか?」 「ええ、そうです」 「面白かったですか?」  十津川がきくと、相手は急に皮肉な眼付きになって、 「警察は何を調べているんですか?」 「山本久栄という人物のことを、全て知りたいんですよ。本当に横浜一のプレイボーイだったのか? 金にきれいだったのか? 彼が遊び廻っても、本当に奥さんは平気で、許していたのか? そういったことをです」 「ええと、警部さんの名前は──?」 「十津川です」 「そうだ、十津川さんでしたね。結婚していらっしゃいますか?」 「ええ、していますよ」 「十津川さんが、金があるからといって毎日、クラブを飲み歩いても、奥さんは許してくれますか?」 「いや、許してくれませんよ」  と十津川は苦笑した。 「じゃあ、わかるでしょう。旦那の浮気を笑って許すような奥さんなんか、どこにもいませんよ」 「しかし、このシナリオ通りに放送したんでしょう?」 「そうです。ところがそのあとで、奥さんが家出をしましてね。大騒動だったんですよ」 「じゃあ、離婚したんですか?」 「いや、山本さんが奥さんに平謝りに謝って、何とか許して貰ったそうです」 「しかし、その後もクラブなんかへ、よく行っているみたいですがねえ」 「ごたごたのあと、しばらく大人しくしていたみたいですが、やっぱり女遊びがやめられないんでしょうね。それで奥さんの眼を盗んじゃ、顔を出しているんじゃないかな」 「よく知っていますね」 「一カ月前だったかな、久しぶりにその『秋』という店へ行ったんですよ。そしたらホステスたちが、山本さんのことを話してましてね」 「どんなふうにですか?」 「山本さんも大変だって話でしたね。この放送のあと、ごたごたがあったことはいいましたね。山本さんは、自分の力であの店を立派にしたようにいっていますがね、実際は奥さんの実家が大変な資産家でしてね。その援助であれだけになったんですよ」  担当者は笑った。 「それじゃあ、奥さんに頭があがらなかったわけですね?」 「奥さんがよく出来た人でね。山本さんのクラブ廻りを許していたんですが、彼がラジオで得意になって、女遊びを自慢したものですからね、奥さんも堪忍袋の緒を切ったわけです。だから、今度女と問題を起こしたら、完全に離婚でしょうね。そうなればスポンサーの奥さんの実家が手を引くし、慰謝料だって取られるから、あの店はつぶれるでしょうね」 「なるほど」 「それに、この本ではすごく気前がいいように書いてありますが、実際の山本さんはどうもケチのようですね」 「その『秋』というクラブですが、長井みどりというホステスが殺されたことは、知っていますか?」 「去年の十二月に殺されたのが、今年の五月になって白骨死体で発見された事件でしょう? 新聞で見ましたよ」 「他には何か、知っていませんか?」 「あれは、犯人がもう逮捕されたんじゃありませんか?」 「そうです」 「それ以外のことは、私も知りませんよ。最近は全く、あの店には行っていませんから」     6  十津川が捜査本部に戻ると、一つのニュースが彼を待っていた。 「晴海埠頭で、沈んでいた車が見つかりました。白いトヨタのセリカです」  と亀井がいう。 「白い車というと、加藤由紀をはねた車か?」 「どうもそうらしいのです。前部のバンパーがへこんでいますし、ライトもこわれているそうです」 「車の持主はわかっているのかね?」 「新宿に住む商店主のものですが、加藤由紀がはねられた前日の夜中に、盗まれたということです」 「前日の夜、盗んでどこかへ隠しておいて、翌日、凶器として使ったということかね?」 「そうだと思います。問題は、誰がそんなことをしたかということですが──」 「それは山本久栄だよ」  十津川がいうと、亀井がびっくりした顔で、 「わかったんですか?」 「そうだ。山本久栄に間違いない」  十津川が重ねていうと、他の刑事たちも集って来た。  十津川は彼らに、中央ラジオで調べて来たことを話し、借りて来たシナリオを見せた。 「長井みどりと関係が出来て、それが奥さんに知れたら破滅だ。それが怖くて彼女を殺したんだ」  と十津川はいった。 「彼を逮捕しますか?」  若い日下刑事が、先走ったいい方をした。 「長井みどり殺しの容疑では逮捕できないよ。この事件の犯人は柳田で、すでに逮捕され、自供し、起訴されているんだ」 「山本が自供すれば、逮捕できるんじゃありませんか?」 「自供だけじゃ駄目だよ。柳田だって自供しているんだ。確固とした証拠がなければ駄目だ」 「じゃあ、どうすればいいんですか?」 「矢代殺しと加藤由紀の殺人未遂の線から攻めていこう。それなら神奈川県警も文句はいわないだろうし、マスコミだって、意外な相違なんて書かないだろうからね」 「山本を呼びましょう」  亀井が十津川にいった。 「そうだね。まず、向うの反応を見てみようか」  と十津川も同意した。  日下と西本の二人の刑事が、山本を迎えに行った。  あくまでも、参考人として来て貰うのである。  来る、と十津川は踏んでいた。  山本久栄が真犯人だとすれば、神奈川県警が柳田を逮捕したことで、ほっとしていたろうと思う。  ところが、東京警視庁が矢代殺しで乗り出して来た。  また不安になった筈である。とすれば、警視庁が何を考え、どんな捜査を進めているのか、知りたいだろう。だから必ずやって来るだろうと、十津川は考えたのである。  今はお互いが探り合いなのだ。 「わざわざ来て頂いて、恐縮です」  十津川は山本を迎えて、丁寧にいった。 「いや、警察に協力するのは市民の義務ですから」  と山本も微笑した。こんなところは、騙《だま》し合いみたいなものである。  亀井が、山本にコーヒーをすすめた。 「東京で矢代利明というライターが殺されましてね。ああ、これは前にお話ししましたね」  と十津川は、山本に話しかけた。  山本は脚を組み、煙草に火をつけた。 「私には関係のないことだと思いますが」 「矢代さんをご存知ないですか? ノンフィクションのライターで、いろいろな仕事をやっている人ですが」 「横浜の殺人事件で逮捕された柳田さんと、大学が同じだということは知っていますよ」 「なぜご存知なのですか?」 「前に私に話を聞きに来た、おたくの若い刑事さんが教えてくれましたよ」  と山本は余裕のある笑い方をした。 「では個人的には、矢代さんはご存知ないんですか?」 「全く知りませんよ」 「よく考えて下さい。ひょっとして前に、何かのことで矢代さんと話をされたことがあるんじゃありませんか?」  十津川は矢代の写真を、山本の前に置いた。  山本はそれを一応、手に取った。が、すぐ首を横に振って、 「申しわけないんだが、見たことのない顔ですね」 「本当に?」 「そうです」 「おかしいですね。去年、あなたは、矢代さんに会って話をしている筈なんですよ」 「いや、そんなことはありません」 「じゃあ、これはどうなんですか?」  十津川は例のシナリオを山本に見せた。  山本の顔色が一瞬変った。  だが彼はすぐ平静さをよそおって、 「ああ、これね。すっかり忘れていましたよ」 「思い出しましたか?」 「ええ、思い出しました。あれが矢代という人だったんですね。ラジオの対談に出たのは覚えていますが、対談したアナウンサーの名前だって覚えていないんですからね」 「でも、矢代さんとは放送の前に対談したんでしょう?」 「ええ。取材されたのは、今、思い出しましたよ」 「五月二十八日の朝、東京の世田谷で、矢代さんに会ったんじゃありませんか?」 「いや、会っていませんね。第一、会う必要もないじゃありませんか」  山本は挑戦的な眼で、十津川を見、亀井を見た。 「運転免許をお持ちですか?」  今度は亀井がきいた。 「ええ。仕事に必要ですからね」 「どんな車をお持ちですか?」 「今はジャガーです。あのスタイルが好きなんです。前にはベンツやポルシェを持っていたことがありますよ」 「最近、国産車を運転されたことはありませんか?」 「いや、ありませんね」 「白いセリカですが、記憶にありませんか? あなたがセリカを運転しているのを見たという人がいるんですがねえ」 「いや、何かの間違いでしょう。私は自分の車しか運転しません。最近は国産車は怖くて、運転できないんですよ。向うの車の方が丈夫に出来ていますからね」  山本は肩をすくめるようにしていった。 「ワープロをお持ちですか?」  ふいに十津川がきいた。  一瞬、山本はびくッとした顔になった。 「いや、持っていませんが。レストランでは、ワープロは別に必要じゃありませんからね」 「おかしいですね。あなたがワープロを買うのを見たという人がいるんですがねえ」  十津川ははったりをかませてみた。  矢代の原稿を、自分に都合のいいように直したのがこの山本だとすれば、矢代の使っていたのと同じワープロを、どこかで買った筈である。 「そんな筈はありませんよ。私は買ってないんだから」  と山本はむっとした顔でいった。  十津川はそれ以上、ワープロでは追及しなかった。 「五月二十八日の朝五時から六時の間、どこでどうしていらっしゃいました?」 「その件は前にも答えた筈ですよ。家にいましたよ。そんなに朝早くから仕事はしませんからね」 「じゃあ、二十九日の午後五時から六時までの間は、どうですか?」 「何ですか? それは」 「実はその時間帯に、あなたが白いセリカを四谷三丁目近くで走らせているのを見たという人が、何人かいるのですよ。それでおききするんですがね」 「それは何かの間違いですね。今もいったように、私は国産車を運転したことはないんです。私じゃありませんね、それは──」 「では、二十九日のその時刻には、横浜におられたわけですね?」 「いたと思いますよ。どうしても必要なら、調べておきますが」 「ぜひ調べておいて下さい」  と十津川はいった。     7  山本が出て行くと、十津川は日下と西本にすぐ尾行させた。 「彼は矢代の原稿を直すために、矢代の持っているのと同じワープロを買った筈だ。それを、私に向って持っていないといってしまったので、急いで処分するだろうと思う」 「わかりました。処分したら逮捕しますか?」 「いや、ワープロを捨てただけでは逮捕できないよ。カメラを持って行って、捨てるところを写真に撮り、捨てたワープロを押収するんだ。それで彼に圧力をかけられる」  と十津川はいった。  日下と西本の二人はすぐ、カメラを持って山本を追いかけて行った。  その夜おそく、山本を尾行している日下から電話が入った。 「やりましたよ」  と日下は威勢のいい声でいった。 「やっぱり山本は、ワープロを処分しようとしたのか?」 「帰宅したあと、山本はなかなか動かなかったんですが、午後十一時を過ぎてから、急に車で外出しました」 「尾行したんだね?」 「しました。山本は桜木町の先の岸壁のところへ行くと、車のトランクから梱包した重そうな荷物を取り出して、海へ投げ捨てようとしました。そこで西本刑事がカメラを構えて、フラッシュを焚きました」 「山本はびっくりしたろう?」 「あの驚きぶりを警部に見せたかったですよ。荷物を放り出して、あわてて車に乗って逃げてしまいました」 「それで荷物は?」 「運よく、海には落ちませんでした。これから持ち帰っていいでしょうね? まさか山本が文句をいってくることはないと思うんですが」 「文句をいって来てくれた方が、こっちには好都合なんだ。それはワープロかね?」 「多分、そうだと思います。とにかく、このまま持ち帰ります」  と日下は緊張した声でいった。  日下と西本の二人が運んで来たのは、厳重に梱包された小さなスーツケース大のものだった。  麻紐を解き、布をはがすと、案の定、ポータブルのワープロが出て来た。  矢代のマンションで見たのと同じ、S社製のSE─600と呼ばれるワープロだった。タテ、ヨコ、どちらにも印刷できる機械で、十二、三万円するものだった。 「やはり山本は、このワープロであの原稿を直したんですね」  亀井は並んでいるキーを指で触りながら、十津川にいった。 「五月二十八日の朝、矢代を毒殺したあと、マンションのキーを奪い、部屋に忍び込んだ。そして原稿と写真を盗み出した。その後、部屋にあったワープロの機種をメモして、すぐ買ったのだろうと思う」 「そうでしょうね。二十八日中に自分に都合のいいように直し、その日の深夜には喫茶店『BMW』に忍び込み、テーブルの下に入れておいたわけです。従って、二十八日の少くとも午前中に、このワープロは買ったと思いますね」 「山本がこのワープロを買った店も、一応見つけ出しておきたいね」  と十津川はいった。  地元の横浜では買わなかったろう。山本は横浜一のプレイボーイを気取るくらいだから、地元では顔はよく知られていた筈である。  とすれば、顔の知られていない東京で買ったのではないか。 「ワープロはどこで売っているんだろう?」  十津川は亀井たちの顔を見た。 「デパートなら売っていると思います。それから、秋葉原の電気店街、あとは大きな文房具店というところじゃありませんか」  若い清水刑事がいった。  彼はどんなワープロがあるのか興味を持って、新宿のデパートをのぞいてみたことがあるのだという。 「ワープロなら、字の下手なのがかくせますからね。もう少し安ければ買いたいんですが」 「デパートに、この機種はあったかね?」 「ありました」 「しかし、山本が世田谷で矢代を殺したのは、朝の五時から六時の間だ。矢代のマンションヘ入って原稿と写真を盗んだとしても、三十分ぐらいしかかからないと思う。新宿まで車で、三、四十分だ。六時に殺したとしても、午前七時か七時十分頃には、新宿に着いてしまっている」 「デパートが開くのが十時ですから、三時間ありますね」  と亀井が首をかしげた。 「そうなんだよ。三時間もデパートの前で、開くのを待っていたとは思えない。山本は一刻も早く同じワープロを買って、原稿を直さなければならなかったからだ。だから、秋葉原で買ったのだと思うね。秋葉原の方が新宿より横浜に近いし、店が開くのもデパートより早いんじゃないかな。それに秋葉原へ行けば、どんな機種でもあるからね」 「明日、秋葉原へ行って来ます」  と日下と西本の二人がいった。  どこまで、どのくらい早く、山本久栄を追いつめていけるだろうか?  第六章 罠をかける     1  翌日、十津川と亀井は、引き揚げられた白いセリカを、築地署に見に行くことにした。  問題の車は、築地署の庭に置かれていた。  車を調べた交通係の警官が、十津川と亀井に、結果を説明してくれた。 「塗装の剥げ具合や前部の損傷の程度からみて、五月二十九日に四谷三丁目で起きた事件の車と断定していいと思います」 「運転席に何かなかったかね? 例えば、運転していた人間のライターとかキーとか、煙草といったようなものだがね」  十津川がきくと、交通係の警官は、 「全員で調べてみましたが、何も見つかりませんでした。窓ガラスを開けた状態で沈んでいましたので、何かあったとしても、流されてしまったと思います」 「何もなしか」  十津川は少しばかりがっかりした。  山本のものであることを証明するライターでも運転席に落ちていたらと、ひそかに期待していたのだが、その期待はどうやら裏切られたようである。  警官は申しわけなさそうに十津川を見ていたが、急に思い出したように、 「二度ほど、この車のことで問い合せの電話がありました」  といった。  十津川の眼が光った。 「どんな問い合せなんだ?」 「車のことがテレビで放送された直後からですが、同じ男の声だったと思います」 「うん」 「テレビでは、人身事故を起こした車らしいと報道されました。それでその男の人は、どうも自分が目撃した人身事故の車ではないかと思う、何か犯人についてわかりましたかと、聞いて来ました」 「それが最初なんだね?」 「そうです。それから今朝になって、新聞にもっと詳しくのったわけです。塗装の剥げ具合から、五月二十九日に四谷三丁目で起きた人身事故に関係している車と思われる、と書かれたんですが、午前九時頃に同じ男性と思われる声で、また電話がありました」 「その時はどんなことを、相手はいっていたのかね?」 「どうも自分の友人が、その車を運転していたような気がするというのです」 「ほう」 「なんでもその友人は、酔っ払って路上に駐めてあった車を盗み出して、事故を起こしたというのですよ。ただ、本当かどうかわからないので、運転席に何か落ちていなかったかときくのです。もし自分の友人のものが落ちていれば、彼が酔って事故を起こしたとわかるから、自分が責任をもって出頭させるというんです」 「それで君は、何といったんだ?」 「眉唾くさいと思いましたが、とにかく詳しい話を聞きたいので、一度、こちらへ来て下さいといいました。名前と住所を教えて貰えれば、こちらから伺ってもいいともです」 「そうしたら?」 「いきなり電話を切ってしまいました」 「どこから掛けていたか、わかったかね?」 「東京駅近くの公衆電話ボックスからとわかりましたが、目撃者は見つかっていません」 「その調査はこちらでやるよ。その電話は録音してないのかね?」 「残念ですが、録音されておりません」 「その声だがね、三十代後半の男で、少しばかり尊大に聞こえる喋り方をするんじゃないかね?」 「そうですねえ。そういわれればそうですが、よくわかりません」 「じゃあ、君にあとで電話する。その時に、ある男の声を電話を通して聞かせるから、感想を聞かせて欲しい」  十津川はそういい、相手の名前を聞いておいた。     2 「電話の主は、間違いなく山本ですね」  と帰り道で、亀井が楽しそうにいった。 「私も同感だよ。二度も電話して来たところをみると、山本はあの車に、何か大事なものを落としたのかも知れないね。見つかれば、運転していたのが自分だとわかってしまうようなものだ」 「しかし、車の運転席にはありませんでした」 「あの警官のいうように、海に流されてしまったのか、それとも、落としたと思うのは思い違いかのどちらかだろうね」  十津川は捜査本部に戻ると、築地署の交通係の警官に電話をかけた。  昨日、山本久栄に来て貰って、いろいろと質問した時、その会話を十津川は、ひそかにテープにとっておいた。  十津川はその中の山本の声を、電話を通して警官に聞かせた。 「どうだね?」  と十津川がきくと、相手の警官は興奮した調子で、 「今の声ですよ。今の声の男が、二度も電話して来たんです」 「また電話して来たら、すぐこちらに連絡して貰いたい」  と十津川はいっておいた。 「状況証拠は確実に、山本久栄が犯人であることを示すようになって来ましたね」  亀井が嬉しそうにいった。 「そうだが、カメさんのいうように、いずれも状況証拠なんだよ。これでは、神奈川県警や地検を説得することは出来ないね」 「どうでしょうか? 築地署に、山本はもう一度、電話してくると思うのです。その時に、何か運転席で見つかったといって、奴を脅したらどうでしょうか?」 「それは無理だよ。山本は何かを失くして、それはひょっとして凶器のセリカの運転席に落としたのではないかと、心配しているんだと思う。その何かを具体的にいわないと、相手は引っ掛かっては来ないよ」 「そうですね。駄目ですか」  亀井ががっかりした顔になった。  十津川は慰めるように、 「駄目だと決ったわけじゃない。問題は、それが何かわかれば、実物はなくても、山本を罠にはめることは出来るさ」 「警部は何だと思いますか?」 「それを、二人で考えてみようじゃないか」  と十津川はいった。  彼が煙草に火をつけた時、秋葉原へ行っていた日下と西本の二人が戻って来た。  二人とも笑顔だった。 「どうやら、山本があのワープロを買った店が見つかったらしいね?」  と十津川がいうと、日下が、 「見つかりました。秋葉原の電気店を片っ端から当ってみました。十二店目に手応えがありました。店員の一人が、山本久栄のことを覚えていたんです。五月二十八日だったそうです。九時に店を開けてすぐ飛び込んで来た客で、いきなり機種をいって、あるかときいたといっています」 「それで、例のワープロを買ったのか?」 「そうです。買い取ると、そそくさと出て行ったといっています」 「山本久栄に間違いないんだな?」 「店員がいった人相は山本にぴったりですから、間違いないと思います」  と日下も西本も、確信を持っていった。  十津川は彼らを加えて、山本が気にしている「もの」の検討に入った。  山本が何を落としたのか、落としたと思っているのか、それがわかれば、彼を罠にかけられるからである。 「ただ単に、ライターとか万年筆を車の中に落としたのではないと思います」  といったのは亀井である。 「というのは、どういうことだね?」 「ライターや万年筆にネームが入っていなければ、それが落ちていても、山本のものと断定は出来ませんからね」 「指紋がついていると思って、心配なのかも知れません」  と西本がいった。 「車は海に捨てたんだ。指紋は海水で消えてしまっているよ。山本だってそのくらいはわかるだろう」  亀井が反論した。 「じゃあ、何だとカメさんは思うんですか?」 「見つかれば、必ず山本のものだとわかってしまうものさ」 「名前を書いておくものということになるね」  と十津川はいい、みなでどんなものがあるか、一つずつあげて貰いたいといった。  それを黒板に書きつけて、討論してみようと思ったのである。  ○イニシアルを彫りつけたライター  ○何かの記念に貰った万年筆、ライター  ○DCカードなど自分の名前の入ったカード類  ○運転免許証  ○名刺  ○キーホルダー(キー)  ○書き込みのある手帳  ○通し番号のついたバッジ  ○高級腕時計 「ずいぶんありますねえ」  日下が感心したようにいった。 「一つにしぼるのは難しいな」  十津川も肩をすくめた。  だが山本は何かを、あの白いセリカの運転席に落としたのだ。正確にいえば、落としたと思っている。  それは山本にとって、致命傷になり得るものなのだ。 「落としたとすれば、車で加藤由紀をはねた、その衝撃で落としたんだと思いますね。だが山本は、夢中だったから気がつかない。車を晴海埠頭から海へ落としてから気がついたんです」  と日下がいった。 「じゃあ、試してみようじゃないか」  十津川がいった。 「試すって、どうするんです?」  亀井がきく。 「実際に車を運転して人間をはね、どんなものが落ちやすいか、試してみるんだ」  と十津川はいった。     3  十津川たちは、自動車試験場の一角を借りて実験をすることにした。  同じ年式のセリカが用意された。  人間をはねるわけにはいかないので、加藤由紀と同じ大きさ、同じ重さの人形で試された。  次は山本久栄役である。  中央ラジオの編成局員に聞くと、山本はいつも、英国製の三つ揃いを着ていたという。  すぐに英国製といっても無理なので、十津川が妻の直子に、三つ揃いを持って来させた。  山本は十津川たちに会いに来た時も三つ揃いを着ていたから、五月二十九日も同じと考えていいだろう。  そのあと十津川は、検討会で名前のあがった品物を、一つずつ確認しながら身につけていった。  ライターを上衣の外側のポケットに入れた。これは山本が十津川の前で煙草を吸った時、なかからダンヒルのライターを出したからである。  カードは財布に入れ、内ポケットに。  運転免許証は反対側の内ポケットに、名刺と一緒に入れた。  万年筆は胸ポケットにさす。  キーホルダーはズボンのポケットに入れた。  バッジは買って来て、背広の襟につけた。  手帳は内ポケットに前から入っている。  腕時計が左手にはめてあるのを確認してから、十津川はセリカに乗り込んだ。  前方に加藤由紀に模した人形を立てた。  時速は恐らく四十キロ前後だろう。待ち伏せしていて急発進し、はねたあとスピードをあげて逃げたのだ。  亀井たちが見守る中で、十津川はセリカを急発進させた。  あっという間に人形が近づいてくる。  接触!  人形がはね飛んだ。十津川も強いショックを感じた。  そのまま十五、六メートル走って、ブレーキを踏んだ。  亀井たちが駈け寄って来て、運転席をのぞき込んだ。  十津川は自分の足元を見廻した。  何も落ちていなかった。ただ、胸ポケットの万年筆が飛び出しかけている。 「もう一度やってみよう」  と十津川はいった。  だが、あと一度ではすまなかった。  走り方によったり、急ブレーキをかけたりで、違ってくることがわかったからである。  都合、五回、実験が繰り返された。  それによってわかったことが、いくつかあった。  財布、名刺、運転免許証といったものは、なかなか落ちないということである。財布に入れたカードも、従って落ちない。  一番、落ちやすいのは、胸ポケットにさした万年筆である。  次が重いライター。  胸のバッジは、ねじがゆるんでいると簡単に落ちてしまう。  キーホルダーはじゃらじゃらしていて、一見するとすぐ落ちそうだが、意外に落ちなかった。これは、ズボンのポケットに入っているためらしかった。  車が人形にぶつかった時、運転している人間の上半身はゆれるが、下半身はあまり動かないからだろう。 「落ちたと思えるものは、万年筆、ライター、バッジのどれかだと思うね」  と実験のあとで、十津川がいった。 「それでも、三つですね」  亀井がいった。 「このうち万年筆は、除外していいと思うね」 「なぜですか、一番、落ちやすかったんじゃありませんか?」 「そうだがね、山本は横浜一のプレイボーイを自任している男だ。中身は違うようだが、外見はプレイボーイだ。そういう男が、背広の胸ポケットに万年筆をさしたりはしないだろう」 「なるほど。そういえばそうですね」 「となると、残るのはバッジかライターかだ」 「山本が捜査本部に来た時、バッジはつけていませんでしたよ」  と亀井がいった。 「そうだったね、思い出したよ。ただ問題は、最初から彼がバッジをつけていなかったか、それとも前にはバッジをつけていたかということだね」 「前からバッジなしなら、落としたのはライターの可能性が強くなりますが」 「山本の写真が欲しいね。加藤由紀をはねる前の山本の写真だ」 「横浜へ行って、何とか見つけて来ます」  と亀井がいった。     4  亀井や日下たちが横浜へ飛び、山本の周囲の人間に当った。  山本の交際範囲の広さが、亀井たちに幸いした。  山本の写真が、それだけ多いということだったからである。  何枚かの写真が手に入った。  商店街の理事会に出席している山本。  韓国へ理事たちが旅行した時の写真。  伊勢佐木町の記念事業で挨拶している山本の写真。  全部で十六枚の写真である。  十津川はその十六枚を机の上に並べ、慎重に見ていった。 「バッジをしていますよ!」  と亀井がいった。  確かに数枚の写真の山本は、背広の襟にバッジをつけていた。  ただ写真が小さいので、どんなバッジなのかよくわからなかった。  まさか山本本人に質問して、警戒されては台無しになってしまう。  亀井がその写真を貸してくれた人のところに行き、ネガを借りて来た。  そのネガから、四倍に引き伸した写真を作ってみた。  バッジのデザインがはっきりしてきた。  桜の花である。  その真ん中に「銃」という字が読めた。 「銃というのはぶっそうだな」  十津川がじっと見ながらいった。 「どこかのガンクラブじゃありませんか」 「そうかも知れないね。カメさんは、そういうクラブを知らないか?」 「友だちが日本ガンクラブというのに入っています。バッジをつけていますが、このバッジじゃありませんね。矩形のバッジで、N・G・Cと書いてありました」 「そこに聞けば、このバッジが何というグループのものか、わかるんじゃないかね?」 「きいてみましょう」  亀井はすぐその友人に電話を入れた。  その結果わかったのは、問題のバッジは、「日本銃愛好会」というグループのバッジだということだった。 「このメンバーは、射撃の腕を磨くというより、古式銃のようないわゆる美術品を集め、それを鑑賞して喜ぶ金持ちのグループだそうです」 「金持ちのグループねえ」 「会長は元総理のNさんですが、これは名誉会長といったところで、実際の仕事は、銀座で古美術品の店を出している佐川博という人だそうです」 「すぐその男に会いに行こう」  と十津川は立ち上った。  銀座の松坂屋の近くのビルに、その古美術店があった。  一振り数百万という日本刀や由緒のある鎧《よろい》などが、ずらりと並べてある。  火縄銃もあった。  奥の社長室で、十津川と亀井は佐川に会った。  六十五、六歳で、白髪の小柄な老人だった。 「うちの会員は全員、立派な人たちばかりですよ」  と佐川は誇らしげにいった。 「現在、何人いらっしゃるんですか?」  十津川は佐川の背後のガラスケースに飾られている、金や銀の象嵌《ぞうがん》がされている火縄銃に眼をやった。 「三十六人です。会員は厳選しているんですよ。入会希望者は何人もいるんですが、すぐには許可しないことにしています」 「会員の中に、横浜でレストランをやっている、山本久栄さんがいますね?」 「ええ、うちの会員です。ただ、この方の場合は、奥さんの紹介で入会したんですよ」 「奥さんの?」 「ええ。奥さんのご両親は資産家で、立派な方ですからね」  佐川はにこりともしないでいった。  山本一人だったら、入会させなかったということなのかも知れない。 「佐川さんの襟についているのが、この会のバッジですか?」 「そうです」  佐川はねじをゆるめ、外して十津川に見せてくれた。 「かなり重いものですね」  十津川はそれを、亀井に渡しながらいった。 「十八金ですからね。重いので落ちてしまうという会員もいるのですが、私は安っぽくはしたくないんですよ」 「失くした時は再交付されるんですか?」 「すぐには出来ませんが、理由がわかれば再交付しますよ」 「山本さんは、再交付してくれといって来ていませんか?」     5  佐川は変な顔をして、 「よくご存知ですね」 「やっぱりそうですか。このバッジは、裏にナンバーが彫ってありますね?」 「ニセモノが出るのを防ぐためです。会長のNさんが一番で、私が二番です」 「山本さんは何番ですか?」 「三十一番です」 「再交付の要求が出ているとのことですが、いつ新しいバッジは出来上るんですか?」 「予備はいくつか作ってあります。それにナンバーを彫りこめばいいわけです」 「山本さんには、いつ渡すことになっているんですか?」 「明日にでも通知しようと思っていますが」 「それを少し遅らせて下さい」 「なぜですか?」  佐川は眉を寄せて、十津川を見つめた。 「山本さんは、ある事件に関係している疑いがあるからです。殺人事件です」 「まさか──」  佐川は顔色が変っている。こういう老人にとって、スキャンダルがもっとも怖いことなのだろう。 「残念ですが、事実です。それで、新しい三十一番のバッジを、われわれに貸して頂けませんか。もちろん保証金はお払いしますよ。このバッジはいくらするものですか?」 「二十万円です」  と佐川はいってから、あわてて、 「高いと思われるかも知れませんが、十八金だと少ししか作れませんからね。二十万円でも、材料費とデザイン料でとんとんなのです」  とつけ加えた。 「では、あとから二十万円、お送りしますよ。三十一番の刻印をして、われわれにしばらく貸しておいて下さい」 「わかりました」  佐川は金庫の中から予備のバッジを取り出し、それにその刻印を押してくれた。 「山本さんには、われわれが来たことは黙っていて下さい。もしそれをあなたが喋ってしまうと、捜査に支障を来たしますから」 「山本さんが早く渡してくれといって来たら、どうしたらいいですか?」 「理由をつけて、一週間後に渡すとでもいっておいて下さい。多分、一週間あれば、全て解決すると思います」  と十津川は佐川に約束した。     6  佐川の店を出ると、十津川は近くにあった電話で、築地署に連絡を取った。交通係の警官を呼び出し、 「例の男から問い合せの電話は、まだないかね?」  ときいた。 「まだです」 「そのうちに、必ずあると思う。その時にはこう返事をして貰いたい。運転席の下からバッジが見つかった。十八金で、桜の花の真ん中に銃という字がデザインしてある、直径一・五センチのバッジだ。裏に三十一というナンバーが刻印してある。これからそっちへ持っていくよ」 「わかりました」 「男には、明日の午後一時に来てくれというんだ」 「はい」 「頼むよ」  十津川は念を押してから、亀井と二人で築地署に急いだ。  築地署に着くと、警官が飛んで来た。 「今、例の男から電話があったところです」  と興奮した口調で、十津川にいった。 「それで、頼んだ通りに応答してくれたかね?」 「しました。バッジが運転席の下から見つかったこと、桜の花と銃という字のデザインの十八金のバッジだということもです」 「相手の反応はどうだった?」 「ちょっと考えていたようですが、明日の夕方六時過ぎにそちらに見に行きたい、どうも自分の友人がいつも付けていたものに似ているというのです。もし友人のものなら、悲しいことだが、人身事故を起こしたということで、友人を自首させたいというのですよ」 「明日の午後一時に来てくれと、いってくれなかったのか?」  十津川がいうと、警官は首を横に振って、 「明日の六時過ぎというのは、相手がいったんです」 「相手が?」 「そうです。私が明日の午後一時といおうとしたら、向うが先に明日の午後六時過ぎといったんです」 「どういうことだろう? カメさん」  と十津川は亀井を見た。  山本にしてみれば、一刻も早く問題のバッジを始末したい筈である。それなのに明日の午後六時過ぎというのは、どういうことなのだろうか? 「似たものを用意しておいて、すりかえるつもりじゃありませんか。そのためにどうしても、明日の六時まで時間がかかってしまうんじゃないかと思いますが」  と亀井がいう。 「それだよ!」  十津川は思わず大声を出した。  山本はここヘバッジを見に来ても、それを持って行くことは出来ない。自分のものだと認めれば、車を盗み出して加藤由紀をはねたことを認めることになるからだ。  といってここにあれば、いつか裏側のナンバーから、自分の犯行だとわかってしまう。  一番いいのは、すりかえてしまうことだ。  そのために山本は、どこかでよく似たバッジを作らせていたのだろう。それが出来るのに、どうしても明日の午後六時までかかってしまうのではないのか。  うまくすりかえてしまえば、もう山本は安全だ。 「隠しカメラを使おう。それも三台は必要だな」  と十津川はいった。     7  翌日、十津川と亀井は築地署にいた。  山本が来た時、十津川たちが顔を見せては警戒されてしまう。  二人は二階に待機することにした。  山本にバッジを見せるのは、一階の応接室にした。  そこには三台のビデオカメラが備え付けられた。あくまでも相手に気付かれぬ場所にである。  もう一つ、山本を尾行するために、日下と西本が覆面パトカーで待機した。  だが、午後六時を過ぎても山本は現われなかった。  七時を過ぎた。 「気付かれたかな?」  二階で十津川が呟いた。 「それとも山本が車の中で落としたと思い込んでいたバッジが、他で見つかったのかも知れませんね」 「そうだとすると、全てが無駄になってしまうね。それどころか一層相手を警戒させて、手も足も出なくなってしまうよ」  午後八時半を過ぎた時、 「来ました」  と階下から知らせてくれた。  交通係の井上という警官が男を迎えた。  ジーンズに夏もののブルゾンという恰好の上、口ひげを生やしているので、十津川たちのいった山本久栄の人相とはずいぶん違っている。 「何度も電話した渋谷の原口という者です」  と相手はいった。  井上は相手を応接室に連れて行った。 「市民のご協力が、交通事故などの場合、一番欲しいんですよ」  と、井上はいった。 「それで僕も来たんです。五月二十九日に、友人と一緒にちょっと飲みましてね。彼は酔いにまかせて、駐車していた車を盗み出しましてね。僕は制止したんですが、あっという間に走って行ってしまったんですよ。その友人のつけていたバッジが、いつもつけていたバッジが、その日以来見えなくなりましてね」 「それでは、これを見て下さい。これが問題の車の運転席の下に落ちていたものです」  井上がバッジを見せると、男は手にとって、 「よく似ていますね。ちょっと失礼」  といってから、井上に背中を向け、天井の蛍光灯にかざすようにしていた。  そのあと、くるりと井上の方を振り向くと、 「よく似ていますが、違いますね。どうもご面倒をおかけしましたが、友人がひき逃げの犯人でなくて、ほっとしましたよ」  といった。  井上は返されたバッジを見た。  同じバッジに見えた。が、裏側をそっと見ると、いつの間にかNO31がNO314に変っている。  男は頭を下げて出て行った。  外に出ると、男はタクシーに乗り込んだ。  覆面パトカーの日下と西本が、そのあとを尾行した。     8  十津川と亀井が二階から駈けおりた。 「やっぱりすりかえましたよ」  と井上がすぐにいった。 「やったか」 「素早くて、すりかえたのがわかりませんでしたが、戻されたバッジをよく見ると、桜の花のデザインもちょっと違うし、ナンバーも違っています」 「彼は手袋をしていたかね」 「いや、素手でした」 「それなら指紋がついているかも知れん。すぐ調べさせてくれ」  と十津川はいった。  次に署長にも出席して貰って、三台のビデオカメラが写したビデオを見ることにした。  一台には、男の背中しか写っていなかった。  もう一台には横顔が映っている。  三台目が、ばっちり男の手元を映し出していた。  男は、左手でバッジを灯にかざしながら、右手をポケットに入れている。そしてポケットからニセのバッジを取り出し、返す時、すりかえたのだった。  一方、尾行して行った日下と西本の二人は、男を乗せたタクシーが東京駅八重洲口でとまるのを見た。  男が降りて来て、トイレに入った。が、出て来た時は口ひげが消え、山本久栄の顔になっていた。  山本は京浜東北線に乗り、桜木町へ帰った。  日下と西本は彼を尾行し、相手が自宅へ入るまで見届けた。小型カメラで、その途中を何枚かの写真に撮ることも、忘れなかった。  その写真が現像され、引き伸されたところで、十津川はもう一度山本久栄に来て貰った。  逮捕令状を要請しなかったのは、これが正攻法での証拠集めではなく、相手を罠にはめた形になっていたからである。  山本は機嫌が良かった。  問題のバッジをすりかえてしまったことで、もう自分は安全だと確信しているのは明らかだった。  十津川が見ると、山本の背広の襟元に、誇らしげに例のバッジが輝いていた。  十津川は山本を応接室に案内し、お茶をすすめた。 「今日は何のご用ですか?」  山本はにこにこ笑いながらいい、すすめられたお茶をゆっくり飲んだ。  山本が湯呑みを置くと、待っていたように亀井が入って来て、手袋をはめた手でその湯呑みを持ち去ってしまった。  山本の顔が一瞬真っ赤になった。 「何ですか? これは」 「お茶にゴミが入っていたんで、亀井刑事が持って行ったんでしょう」  十津川が冷静にいうと、山本は一層、顔を赤くして、 「冗談じゃない。明らかにあの湯呑みについた私の指紋を採ろうとしているんだ。これじゃあ、まるで犯人扱いじゃないですか。弁護士にいって問題にしますよ」 「そんな気持は全くありませんよ」 「欺されませんよ。これは明らかな人権侵害だ」  山本が怒鳴って立ち上った時、また亀井が入って来た。湯呑みを山本の前に置いた。  そのあと亀井は小声で十津川に、 「一致しました」  とささやいて出て行った。 「どうぞ、お茶を飲んで下さい」  と十津川は、山本にいった。  山本は腰を浮かせたまま、 「何の田舎芝居ですか? やっぱり、私の指紋を採ったんじゃありませんか。そうなんでしょう?」 「正直にいいましょう。山本さんのいわれる通り、指紋を採らせて貰いました」 「やっぱりね。すぐ弁護士に連絡します。これは明らかな人権侵害だ」 「事件に関係して必要なので指紋を採らせて貰ったのなら、人権侵害にはならないんじゃありませんか? 正当な捜査活動になるんじゃありませんかね」  十津川は落ち着いていた。  山本の顔にかすかな不安の色が浮んだ。 「事件て、何のことですか?」 「もちろん、矢代利明殺しと加藤由紀に対する殺人未遂ですよ」 「私とは関係ない」 「加藤由紀の件ですが、彼女は白いセリカにはねられたのです。運転した人間は、明らかに殺意を持って、彼女に車をぶつけたのですよ」 「それが私と、どんな関係があるんですか?」 「もう少し話を聞いて下されば、どう関係してくるのかわかって来ますよ。凶器の車が晴海の海から発見されました。盗難車でした。犯人は車を盗み、その車で彼女をはねて、殺そうとしたんですよ。築地署でその車を調べたところが、運転席の下から、非常に特徴のあるバッジが見つかりました。車の所有者の知らないものなので、明らかに犯人のものとわかりました。加藤由紀をはねた時、そのショックで落ちたんだと思います」 「それで?」 「面白いことに、車が見つかってから、明らかに同じ男と思われる声で、築地署に何度も電話がかかって来たのです。犯人はどうも自分の友人らしい、その車の中に何か落ちていなかったか、何か落ちていれば、友人が犯人かどうかわかるというのですよ。面白いと思いませんか?」  十津川はじっと山本を見つめた。  山本は眼をそらせて、 「私は関係ありませんからね」 「その男が三度目に電話して来た時、丁度、運転席からバッジが見つかっていたので、その旨を知らせました。担当の警官がバッジのデザインを話すと、男は、それはどうも友人のものらしいから見たいというのです。もし友人のものなら、彼に自首をすすめるというので、来て貰いました。市民の協力も必要ですのでね。男は昨夜の八時半過ぎにやって来ました。われわれの発見したバッジを見せると、彼はしばらく見てから、友人のものではないといって帰って行きました」 「なぜ私に関係のないことを、長々と聞かされなければならないんですか? 私だって仕事があるんですよ」 「もう少し聞いて下さい。だんだん面白くなって来ますから」  と十津川は笑って、 「その男が帰ったあと調べると、問題のバッジがすりかえられていたのですよ」 「それが、私と何の関係があるんですか?」 「では、これを見て下さい」  十津川は部屋の隅に置かれたテレビに近づくと、その下に接続してあるビデオデッキに用意しておいたカセットを入れて、再生のボタンを押した。     9  最初は、ブルゾン姿で口ひげをはやした男の姿が、テレビに映し出された。 「それがその男ですよ。あなたに似ていると思いませんか?」  十津川がいった。  山本は黙っている。が、顔が青ざめていた。ビデオカメラが狙っていたと知って、動転しているのだろう。  男に、警官がバッジを見せる。  男は警官に背中を見せ、バッジを確かめるような振りをして、素早くすりかえた。その瞬間を、はっきり映し出していた。 「ごらんなさい、まるで手品師でしょう?」 「───」 「われわれはこの男を尾行しました。驚いたことに、彼は東京駅のトイレに入ると、口ひげを落として出て来たんですよ。私の部下がその瞬間の男を、カメラに写しました。どうされたんですか? 気分が悪くなりましたか?」 「───」 「そのあと男は、京浜東北線で桜木町まで行き、タクシーで自宅へ帰りました。驚いたことに男はあなたの家に入って行きましてね。その瞬間の写真もちゃんと撮ってありますので、見て下さい」  十津川は、何枚かの写真をテーブルの上に並べた。  山本は見ようとしない。 「山本さん」  と十津川は、俯いている相手に声をかけた。 「罠にかけたのは、卑怯だったかも知れない。しかし私はね、あなたを許せなかった。クラブの女を殺したあなたは、柳田を犯人に仕立てあげるために矢代まで殺し、彼の恋人まで殺そうとした。あなたが犯人なんですよ」  十津川はじっと山本を睨みつけた。  これは賭けだった。  問題のバッジは、正確にいえば山本が車に落としたものではない。山本があくまでシラを切ったら、十津川たちの負けなのだ。  捜査はもう一度、やり直さなければならない。  五分、六分、七分と過ぎた。  ふいに山本は、大きく吐息をついた。 「負けましたよ。警部さん」  と山本はいい、十津川を見て肩をすくめた。  十津川は黙っていた。  山本は煙草を吸っていいかと断り、うまそうに一服してから、 「私の助平根性が全ての原因でしてね。最初はクラブ『秋』の長井みどりです」 「彼女には沢山男がいたんでしょう?」 「いましたよ。美人だし、男を喜ばせるのがうまい女でしたからね。柳田さん、浜崎さん、白石さんがライバルでね。私は家内に頭があがらないくせに、プレイボーイを自任して、彼女に熱をあげたんですよ。助平根性ですよ」 「それで、動きがとれなくなったんですか?」 「彼女に金を要求されましてね。自分で店を持ちたいから五千万円出してくれ、さもないと、私の家庭をめちゃめちゃにしてやるというんです。一緒にラブホテルに行ったとき、彼女は二人の写真をいつの間にか撮っていましてね。それを家内に見せるというんですよ」 「それで、彼女を殺す気になった?」 「ええ。五千万円なんて作れないし、家内と別れたら、私は店をやっていけませんからね」 「十二月十四日に柳田が秋田に行くのを知っていて、その日の夜に長井みどりを殺したんですか?」 「ええ。死体は隠す気でしたが、もし見つかった時、彼のアリバイがあいまいなら、私より彼に疑いが行くと思ったからです。夜行列車では、それに乗ったことの証明は難しいですからね」 「なるほどね」 「彼女を殺して、金沢八景の造成地に埋めました。翌日にはもう家が建ち始めて、死体を完全にかくしてくれましてね。これなら何も柳田さんを狙って、十二月十四日の夜に彼女を殺すこともなかったと思ったりしたものです」 「しかし今年になってその家がこわされ、マンションが建つことになってしまった」 「そうです。ビルを建てるので地下深く掘られて、白骨死体が見つかってしまいました。私はまた、柳田さんを犯人に仕立てあげなければと、思い始めたんです。他の二人、浜崎さんと白石さんは、私や柳田さんほど、彼女との関係が深くありませんでしたからね。私と柳田さんが一番疑われる。それならやはり、彼を犯人にしなければならないと思ったんです」 「それで、どうしたんです?」 「柳田さんと二人だけになった時、こう話してみたんです。この白骨死体は、どうも去年の十二月十四日の夜からいなくなった長井みどりのような気がする。もし彼女だとすると、われわれは警察に疑われるが、君は大丈夫かって」 「彼はどういったんですか?」 「しばらく考えていましたが、急に眼を輝かせて、十二月十四日なら秋田行の『天の川』に乗っていたし、翌日は秋田で告別式に参列していたから大丈夫だというんです」 「車内で矢代と会ったことも話したんですか?」 「そうなんです。六年ぶりに矢代という大学時代の友人と会ったというんです。私は困ってしまいました。柳田さんに確実なアリバイがあったら、私が犯人と断定されてしまう。それで、それとなく矢代という人間のことを聞いてみたんです」 「それで?」 「聞いているうちに、あの矢代さんだと気がついたんです。中央ラジオに出演した時、会ったライターの矢代さんだとです。それで電話番号を調べて、電話したんです」 「なるほどね」 「それとなく話しかけると、彼も私のことを思い出してくれました。柳田さんを知っているというと、矢代さんは去年の十二月に、『天の川』で会ったと、何の警戒もなく喋ってくれましたよ。上野を出てすぐ会ったこともです。ああ、近く『天の川』のことを書いて、それが本になることもね」 「それで、絶対に殺さなければいけないと思ったんですか?」 「柳田さんのアリバイが、完全に成立してしまうからです。自分を助けるためには、矢代さんを殺す必要があると思ったんです」 「ジョギングのことは?」 「矢代さんに聞きましたよ。それで五月二十八日の早朝、待ち伏せしていて、毒入りのジュースを飲ませたんです」 「それからマンションに行き、原稿と写真を盗んだ? でも、どうやって矢代さんの部屋に入ったんですか?」 「彼はトレーニングウェアのポケットに、鍵を二つ持っていたんです。その一つを取り、鍵をあけました。もう処分しましたが、彼の口をふさいでも、原稿があったら何にもなりませんからね」 「秋葉原で同じワープロを買い、その日のうちに原稿を自分に都合のいいように書き直したんですね」 「ええ。大変でしたよ」 「どんなふうに直したんですか?」 「原稿をみたら、上野を出てすぐ、矢代さんが柳田さんに会ったと書いてあるんです。それで時刻表を見て考え、羽後本荘を出てから会ったことにしたんです。あれは上手く直したと思っていますよ」 「そうですね。ただラストを、なぜあんなふうにしたんですか?」  十津川は興味を持ってきいた。 「実は、ラストはまだ書いてなかったんです。間もなく秋田へ着くというところまで、矢代さんの原稿は出来ていたんですよ」 「それなら、平凡に、『秋田に着いた』で終らせておけば良かったんじゃないのかな?」 「最初はそう書きました。ところがそこで、私の助平根性が頭をもたげたんです。私は文学青年だったことがありましてね。それで、最後を気の利いた感じで終らせたくなったんですよ。最初の方を読み直したら、自分は夜行列車の正面よりテールエンドが好きだと書いてあったんです。それで秋田に着いてから、もう一度テールエンドを見ることにしたんですよ」 「なるほどね」  十津川は思わず微笑した。 「何かおかしいことをいいましたか?」  山本は眉をひそめた。 「あなたがそれを書かなかったら、われわれはあなたをマークしなかった」 「え?」 「そこだけが、実際の『天の川』と違っていたんですよ。だから、これは矢代が書いたものではないと思ったんです」 「しかし、私は彼の撮った写真を見て書いたんですよ」 「だから間違えたんです」  と十津川はいった。     *  山本が全てを自供した。 「これで終りましたね」  と亀井がいった。  十津川は手を振って、 「とんでもない。これから神奈川県警と地検を説得しなければならないんだ。これは山本より手強いよ」  といい、小さく肩をすくめて見せた。 初出誌 「オール讀物」昭和六十年九月号 単行本 昭和六十一年一月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 昭和六十三年六月十日刊